「如風伝」第二部 十三話

 そこには闇があった。
 どこまでも続く、漆黒の闇だけが辺りを包んでいる。前後左右、上下とどこを見渡しても光はない。自分の両手すら見えないほどの一面の闇の中で「わたし」はまるで自分という存在が失われたような感覚を抱いた。全、あるいは無。それらの境界のない墨染の世界に「わたし」はどうしてだか不安を覚えない。かつて──自らが生まれ出る前にいた穏やかな海の中のようだ、とそこを見たこともないのにそう感じた。そのぐらい、見果てない黒は慈しみを持って「わたし」を包んでいる。
 寒さもなければ暑さもない。この安寧が永遠に続くことすら願った。ここにいられるのなら、明日など来なくてもいい。本当の本当にそう願った。
 その「わたし」を呼ぶ声が聞こえたとき、胸中にあったのは失望だった。聞き取れない言葉の数々。乱暴な足音。見たこともない姿をした幾つもの影。その中の一つが「わたし」に触れる。触れられたのがどちらの腕だったのか──あるいは腕ではなかったのか。それすら「わたし」にはわからないのに明かな嫌悪感があった。掴まれた部位を渾身の力で振るう。それでも掴んでいるものの方が強く、「わたし」はどれほど暴れても解放すらされなかった。
 光を望んだことはない。光という概念を知らなかったのだから当然だ。
 その「わたし」が突如知る。光というのは──白日の元に晒すというのは酷く残酷で、そして醜く卑しいものだった。

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