「如風伝」それは、風のように<十一>

「――あなたに全てを委ねて、導として生を終える。陶華軍が望んだ新しい『答え』です」

 椿色の巻物は最後まで広げられ、石畳の上へ折り重なっている。志峰(しほう)が読み上げた告発文の内容に反応する者はまだいない。左の脇腹をざっくりと斬りつけられた文輝(ぶんき)は衛生兵(えいせいへい)の応急処置を受けたが、今も痛みは続いている。時折意識を持っていかれそうになることもあったが、華軍が遺した言葉を聞き届けたい一心で耐えた。
 数本の松明に照らされた白帝廟(はくていびょう)の中庭には、いつ来たのか進慶(しんけい)の姿がある。定時連絡によれば、進慶は左官府の南側で戸部戸籍班の書庫に火を放った実行犯を捕縛したらしいが、その犯人もまた与えられた役割を演じただけで事件の全貌は知らなかった。東の白帝廟で文輝たちが華軍と遭遇したという報せを受け、進慶も合流したのだろう。中庭に広がる惨状を進慶は見ていない。それでも彼は言う。

「小戴、納得が出来たのなら早く医務班で治療を受けろ」

 白の右服(うふく)はあちらこちらが破れ、二人分の血で染まっている。脇腹の傷はまだ少しずつだが血を流し続けていた。これ以上手当が遅れれば、命を失うことこそないだろうが後遺症が残る。進慶がそれを案じているのはわかっていたが、文輝は頑なに首を横に振った。

「進慶殿、俺はまだ納得していません」

 志峰殿。椿色の巻物を元の状態へ戻そうとしている通信士へ視線を投げる。華軍の造反の理由を知りたいと言った彼もまた納得していないという確信があった。
 文輝の視線の先で志峰は困ったように笑う。

「志峰殿はどう思われますか」
「どう、と言うのは?」
「華軍殿の死に様は通信士として納得が出来るのか、とお聞きしています」

 華軍の長い告発文は人が人に絶望するだけの理由としての側面を持っている。守り育んでくれる「親」との別離、得られる筈だった「友」の喪失、そして信ずるべき「上官」からの裏切り。華軍と同じ境遇にあって、なお人を無条件に信じよとは誰も軽々しく口に出来まい。文輝が幾ら大らかで世間ずれしていないといえども、そのぐらいの分別は付く。
 何か事情がある、と先に主張したのは文輝だ。志峰はいかなる理由があろうと、華軍の境遇に同情するなと言った。この場にあって、その志峰が最も華軍に同情している。
 ただ。
 同情はしているが、志峰もまた華軍の主張に心から納得したわけではない。
 表情は暗くて見えない。それでも、志峰の声色は雄弁に物語る。告発文を読み上げる志峰の声にははっきりと怒気が滲んでいた。

「小戴殿、あなたの思っている通りです。私は今、陶華軍の行いに憤っている」

 親と別離し、「まじない」の才に翻弄され、「読替」の罪科に一生を左右されて、それでもなお志峰は道を踏み外さずに生きてきた。その道のりの険しさは華軍のものよりも、幾らかましだったのかもしれない。志峰は上官と後見に恵まれた。
 人を疑い、憎む気持ちしか知らないのならば、同情で済ませられる、と志峰は言う。絶望しか知らない通信士など珍しくもない。
 だが、華軍は違う。
 人を信じ、託す気持ちを知ってなお、自らが絶望から救済されることを優先した。それは「通信士として」や「官吏として」決して許されることではない。中科を終えてなお、官吏であるということは、自らの優先順位を最も下に位置づけ、人として模範的であることを万民に誓うのと同義だ。それが出来ないのであれば官吏など志さなければいい。
 人にはそれぞれの事情がある。守りたいものも違う。信念の形など同じである筈がない。
 それでも。

「同じように命を懸けるのであれば、首夏(しゅか)に全てを丸投げするのではなく、自ら上官を諌めるべきだ。少なくとも、わたしならばそうする」

 志峰の言葉を受けて、文輝に肩を貸していた晶矢(しょうし)が言う。彼女の右服もまた文輝の血で汚れつつあったが、それを気にする素振りはない。
 三人分の否定を受けて、進慶が困ったように溜め息を吐いた。

「阿程(あてい)、お前らしくもない。お前は怪我人に屁理屈をこねさせるのが正しいと思っているのか」

 小戴を医務班へ送り届け、速やかに再び劉子賢の捜索に戻る。それが官吏としての任だろうと言葉が続く。
 返答をする余裕のない文輝に代わり、晶矢が反論した。

「問題ない。志峰殿が既に鳥を飛ばした」
「大夫(たいふ)のところへか? それならば、俺も送ったが『告発文を持ち、内府へ帰還せよ』とのことだったではないか」
「それでは間に合わんというのは、進慶殿も既に気づいておられるだろう」

 わたしが鳥を送ったのは別のところだ、と言う。それはどこだと進慶が問うより早く、声が聞こえた。

「文輝殿! 無事ですか!」

 白帝廟の門から三つの影が入ってくる。その中の先頭の影が発する声が耳に届いた瞬間、文輝は安堵で体から力が抜けた。晶矢ひとりではその体重を支えきれず、二人でくずれるように石畳の上に尻をつく。
 その間にも影は人としての輪郭を明確にしていく。
 御史台(ぎょしだい)の兵の持つ松明が、声のあるじを照らし出したのを見るなり、進慶が立礼した。

「黄(こう)将軍! 本日は下城されたのでは?」
「義弟(おとうと)が怪我を負ったと聞いて黙って医務室に座っていられるほど、私は薄情ではありませんよ」
「義姉上(あねうえ)も俺も屋敷に帰り損ねたのでな。中科生が二人で岐崔の為に動いている中、大人が黙って見ているだけと言うのも何やら居心地が悪い。そうだろう?」

 その挑発的な問いに進慶は言葉を失う。西白国は序列を重んじる。年齢も性別も位階の前では何の効力も持たない。
 進慶が今、対峙しているのは戴家の長子の妻である黄玉英(ぎょくえい)医師と、戴家次男・仲昂(ちゅうこう)の二人だ。二人とも将軍位を持ち、中城においては一目置かれている。九品(きゅうほん)の三位、戴家の将軍二人を相手にして引け目を感じない官吏はいない。
 石畳の上に寝かされ、玉英が持参した痛み止めの生薬を口に含まされながら文輝は次兄に問う。
 仲昂と玉英の二人が中城にいるということは、城下の屋敷を守っているのは母親と仲昂の妻の二人だけということになる。

「小兄上(あにうえ)、では屋敷は」

 不安に言葉を詰まらせる。大仙(たいぜん)の前では平然と強がってみせたが、実の兄を相手に虚勢を張るほどの距離感はない。文輝も次兄の前ならいつでも年相応の子どもだ。九品としての模範は兄が示してくれる。文輝まで虚飾を身に纏う必要はなかった。
 仲昂がそれをどう思っているかを今までに考えたことはない。
 仲昂もまた文輝の前では一人の兄でしかなかった。
 文輝の傍らにしゃがみこんで、手荒く頭を撫でられる。

「文輝。案ずるな。母上は戴家の正室であられるのだぞ?」

 大丈夫だ。万が一のときに大丈夫でないような妻を娶るほど父上は耄碌しておられないさ。言って次兄はしゃがみこんでいた晶矢の手を取って立たせる。
 玉英が痛み止めが効いたか尋ねてきたので、文輝は黙って首肯した。軍医の治療はときも場所も選ばない。松明を倍に増やすように指示して、玉英は腰に下げていた鞄から道具を取り出す。岐崔(ぎさい)の兵部医務班で将軍位を持つ三人のうちの一人だ。その位階を手に入れた玉英の手腕を疑う必要はない。

「そうです、文輝殿。あなたはまずご自身の怪我をご案じなさい」
「黄将軍、首夏――文輝の具合はどうなのですか」
「晶矢殿、私が参ったのです。貴女が心を痛めるような結末にはいたしません」

 ですから、貴女は貴女のなすべきことをなさい。
 玉英がそう言うと晶矢だけではなく、進慶や御史台の四隊六十人の顔が引き締まる。
 志峰だけが黙々と椿色の巻物を元に戻している。巻いても巻いてもまだ書状が残っていた。次兄が連れてきた通信士が志峰に声をかける。

「梅(ばい)通信士殿、貴官はもうわかっているのでは?」
「認めたくはないが、そのようですね」
「志峰殿?」

 志峰と通信士の会話が上手く咀嚼出来ずに文輝は目線だけを動かして、音源を見る。脇腹の傷を縫合する痛みが新たに生まれて顔を顰めた。玉英はそれでも黙々と針を進める。
 倍になった松明が志峰の表情を薄っすらと照らし出した。
 次兄が「通信士殿、愚弟に教えてやってくれ」と志峰の肩を叩く。志峰は一瞬だけ躊躇って、そして重い口を開く。

「小戴殿、あなたはまだ知らないと思いますが、伝頼鳥(てんらいちょう)の復号鍵を何にするかは管轄の通信士に一任されています」
「えっ?」
「つまり、あなたの諳んじた『武官諸志』の前文を戦務班の鍵に定めたのは、陶華軍本人です」

 あれほど長い口上を鍵に定める通信士は決して多くはありません。志峰がゆっくりと語る。業務の効率を考えれば当然のことだと一同頷き合った。
 それでも、華軍は自らに与えられた少ない権限で「諸志」を鍵に定めた。

「なぜだと思いますか?」

 その問いには文輝ではなく仲昂が答える。

「陶華軍にも『武官としての誇り』と『目指すべき理想』があったからだろう?」
「小兄上はどうしてそう思われるのですか?」
「もしこの二つがないのなら、『諸志』など煩わしいだけだ。それに」
「それに?」
「俺の調べでは、陶華軍はどの役所に配属されても一貫して『諸志』を鍵に定め続けている。陶華軍は『誰か』に『何か』を伝えたかった、と見るがどうだ?」

 華軍は戦務長(せんむちょう)に対して憎悪しか抱いていなかったと自ら告発文に書した。戦務長の望みを最悪の形で潰す。それだけしか望んでいないと記した。
 けれど、多分。

「華軍殿は戦務長にも武官としての誇りを取り戻してほしかった――ということですか?」
「信じてもいない相手にそれだけのことが出来ると思うか、文輝」
「俺には出来ません」
「俺にも出来ないし、多分この場にいる誰にも出来ないだろうな」
「それが答えでしょう」

 言って志峰が懐から一通の書状を取り出す。
 彼の手元に納まった巻物と同じ色の料紙。その表書きには白墨で文輝の名。

「過ぎた忠心は誰かが受け止めなければただの暴威です。小戴殿、あなたはその暴威を受け止める相手として望まれた。だから、あなたにこの書状を開いていただきたい」
「通信士殿、縫合にはもう少し時間がかかります。ですから、先にお行きなさい」
「心得ました、黄将軍」

 志峰が椿色の書状を玉英に預け、廟の中心に座した白帝像へ一礼した。
 そして、仲昂の指揮で四隊が動き始める。下城する機会を失った仲昂もまた無為に時間を過ごしていたわけではない。中城で出来る最善を探していた。
 戸籍班の書庫は間もなく鎮火する、という報告が大夫から届く。それを受けて仲昂は御史台の部隊に指示を出した。晶矢もその指示に組み込まれていく。
 去り際に晶矢が言った。

「首夏、おまえ一人が全部を背負わなくてもいいんだ。その書状を読んだらすぐにわたしたちに伝えてくれ。岐崔を守る官はおまえだけではないことを忘れてくれるなよ」

 ではな。言って晶矢の小さな背中がどんどん遠くなる。玉英の治療が進む度に脇腹に痛みが生まれたが、彼女がそれを気に留めることはなかった。
 一通りの治療が終わると、包帯を何重にもきつく巻き付けられる。文輝が着ていた右服はぼろぼろで血まみれだと鳥で報告していたこともあり、新しいものが用意されていた。それに袖を通すと、体が芯まで冷えていることに気付く。

「文輝殿。仲昂殿も強がっておられましたが、実のところは今すぐにでも下城したいと思っておられるでしょう」

 道具を片付けながら玉英が言う。松明に照らされた彼女の表情には憂いが浮かんでいた。
 それを指摘してもいいものか、一瞬迷って、結局のところ軽口の形で放り投げた。

「大義姉上(あねうえ)も即刻、下城したい、とお顔にありますよ」
「仕方がありません。私はこれでも戴家嫡男の妻ですから、義母上(ははうえ)様のお力になりたいと思うのは道理。それでも、私もあなたも国官なのですから、その務めを放棄することは許されません。よいですか、文輝殿」

 暗がりの中、不意に玉英の眼差しが鋭さを増す。彼女が文輝に何かを伝えようとしているのを察して背筋を正した。玉英が伴ってきた通信士がそっと場を離れる。多分、文輝と玉英の会話を邪魔しないようにと、気を遣ったのだろう。

「何でしょうか、大義姉上」
「あなたは確かに九品の生まれ。その血統は決して失われるものではありません。一生を共にする肩書きに恥じない生き方をあなたが志しているのは、素晴らしいことだと私は思います」
「それは大義姉上も同じでしょう。宰相(さいしょう)閣下の姪御として生きるのは決して楽な人生だとは俺は思いません」

 玉英の伯父・黄碌生(こう・りくしょう)はもう十年もの間、宰相を務めている。宰相というのは国官の最上位であり、国政の最終決定権を持つ。また、国主の住まいである後宮に自由に出入り出来る数少ない存在であるから、人としての徳も求められる。当代の宰相は国主と幼馴染の関係にあることから、不当人事だと反発を生んだこともある、と文輝は聞いていた。
 それでも、碌生は十年を経ても未だ宰相の地位を手放していない。それは国主が真実、彼を信頼しているという証だ。国官の多くも幾らかの不満を持っているが、それでも碌生の政治的手腕を認めている。
 その、宰相の姪として生まれた玉英の人生を羨むものは少なくない。九品でも三公でもない、黄家の女子は政略結婚の駒として大いに利用された。宰相自身は生涯独身を貫いているから、直系の子孫はいない。そのことも玉英の人生に波乱を生んだ。
 結局のところ、玉英は恋慕ではなく政治的な判断で戴家に嫁した。そのことを玉英が悔いている節はないが、それでも数年前までは時折切なげな表情を見せるときもあった。戴家に嫁がなかった、文輝と出会わなかった「もしも」の未来に思いを馳せているのだと幼心ながら察して、文輝も切ない気持ちになったものだ。
 今では長兄と玉英との間には跡継ぎも生まれ、「もしも」の未来を願う隙間はなくなった。そうなって初めて、玉英は彼女の生まれを受け入れたのだ。
 だから。
 文輝は言った。
 人には人の苦しみがある。それは必ずしも万人の目に映るとは限らない。
 そう言えば玉英は眦を柔らかく細めた。

「文輝殿、それはあなたの持つ優しさですね。誰もが持っている筈のその優しさを、あなたのように何の気後れもなく出せるものは決して多くはありません。晶矢殿を知っているあなたには今更のことでしたか?」
「暮春のことは大兄上(あにうえ)の方がよく知っているのでは? 俺は多分、一生暮春を追い越すことはない、と思っています」
「あなたが一体何を比べてそう言うのかは私にはわかりません。けれど、あなたは知っている筈です」
「志の形は皆同じではない、ということですか」
「ええ、そうです」

 人には生まれ持った運命がある。それに沿うのも抗うのも本人の自由だ。律令は人を縛る。世間という狭い世界も人を縛る。それでも、胸の内までは誰にも縛ることは出来ない。見たもの、感じたもの、その一つひとつに正否を突きつけることは事実上不可能だ。
 志は人の数だけある。その貴賤を問うのは無粋だ、と文輝は思っている。
 それでも。

「模範的な理想と最適解は統一されるべきだ、と俺は思います」

 少なくとも外郭は形づくられなければならない。
 何の目安もなく、まっすぐに歩けというのはあまりにも無理というものだ。
 そして、それは国官にこそ委ねられている。
 国官というのは万民の規範だ。だから、国官は律令に従う。
 そういう仕組みになっている、と文輝は学舎で学んだ。
 違うのかと問えば、玉英の眼差しが鋭さを帯びる。

「それであなたは納得出来るのですか? 選ばなかった答えを少数意見だと切り捨てることが出来るのですか? あなたの志はその程度で妥協を許すのですか?」

 矢継ぎ早に問いを重ねられて、文輝は答えを探しあぐねた。息を吸う。学舎で教わった「正答」が幾つも脳裏に湧き上がるが、玉英がそれを求めているわけではない。
 文輝はゆっくりと首を横に振った。
 理想論の確認をしている場合ではない。
 今は、一刻も早く玉英が預かっている書状を開き、内容を伝頼鳥で飛ばすべきだ。わかっているのにそう出来ない。玉英の眼差しがいつになく真剣だからだろうか。

「大義姉上の仰りたいことがわかりません」
「あなたにはまだ難しい話なのかもしれません。それでも、あなたは将軍位を望むのでしょう。ならば理解しなければなりません。人の世に最適解など存在しません。そこにあるのはただの傲慢です」
「しかし、大義姉上、道としての幅を示さなければ人は迷います」
「そうですね。導もなく道を歩けば遅かれ早かれ道という形は失われるでしょう」
「では」
「文輝殿、あなたが大事に思うのは形ですか? 万民の意に沿う答えなどありはしません。それでも私たち国官は道を示さなければなりません。ですから、一人でも多くのものが救われる道を選ぶ必要があります」

 より少ない犠牲でより多くの救済を望むのが官吏としての正道だと玉英は語る。
 玉英は医師だが同時に武官でもある。人を救う使命と人と戦う使命の間で常に揺れているのだと彼女は告げた。その永遠にも等しい命題と闘い続けることが、玉英の選んだ道だ。
 それでも、と彼女は続ける。

「それは建前の話。あなたはあなたの思う志を誰かの為に棄てる必要はないのですよ」

 ふわり、玉英が微笑む。その笑みには一転の曇りもない。子を持つ母として、弟の姉として。人生という長い道を歩き続ける先達として。玉英は今、文輝に新しい答えを示した。
 その答えには反論を許す優しさがある。文輝は逡巡して彼女の言葉を否定した。

「しかし、それでは俺は道を選べません」

 それでいいのです、と玉英が静かに言う。

「あなたの志と国の進むべき道は決して同一ではないかもしれません。違いに出会う度に迷いなさい、文輝殿。そしてその枝分かれの数だけ心を痛めなさい。その先で選んだ答えに胸を張れるように」
「大義姉上は俺に何を望むのですか」
「文輝殿、私があなたに望むことはたった一つ。決して誰の顔色も窺わないでお進みなさい」

 暗黙の了解を明らかにする為に問う。玉英の眼差しは穏やかで優しいが、同時に峻烈さも伴っていた。

「上官の、ということでしょうか」
「そして、あなたが治めるべき民の顔色も」
「それでは、政は成り立ちません」

 玉英の言葉に反駁する。上官の心象も、部下の期待も、領民の願望も、必要に応じてすべての物ごとを切り捨てろと彼女は言うが、それは事実上不可能だ。そんな何の指標もない生き方を選べるほど文輝は強くない。律令に沿い、周囲と同調し、そしてある種の「正しさ」に依存しながら生きていくものだと思ってきた。これからもそうするつもりだった。
 少なくとも、十七年間文輝を育んできた世界は調和を重んじている。
 それでも、玉英は言う。

「それをあなたがどう解決するのか、私はずっと楽しみにしていますよ」
「大義姉上のお話は難しくて俺には半分も理解出来ません」
「それでもあなたは進まなくてはなりません。文輝殿、大丈夫です。あなたにはそれだけの器がある、とこの玉英は信じておりますよ」
「大義姉上、俺は――」

 その先の言葉を口にしていいのかどうか迷う。
 自らを律し、完全なる公平を貫く道を何の躊躇いもなく選べるほどには純朴でない。十七年の年月は既に文輝の人格の一部を確立してしまった。
 それでも、文輝の胸の奥でちりちりと焦げ付く感情がある。
 玉英や次兄たちが聞けば青さだと笑うだろう。晶矢は呆れるかもしれない。棕若(しゅじゃく)は情けないと思うかもしれない。
 それでも。

「あなたが劉子賢を信じたいのならば、信じてもよいのです。裏切られるだけかもしれません。幻滅するだけかもしれません。それでも、あなたがあなたの心を否定する必要はどこにもないのですよ」

 玉英の示した道がまっすぐに文輝の中に届く。
 そしてその道は文輝の背中を押す。まだ間に合う。今すぐ駈け出せば、まだ文輝は文輝の答えを手放さなくてもいい。
 戦務長を信じていると左尚書(さしょうしょ)で言った。華軍のことも信じていた。その気持ちには未だ変わりはない。甘いと嗤われるだろうか。短絡的だと叱られるだろうか。
 それでも。
 今ここで引き返せば、文輝は一生後悔するだろう。
 信じる道を選ぶのに、それ以上の理由は必要ない。
 だから。

「大義姉上、俺は行きます」

 玉英がその言葉に頷いて椿色の書状を手渡した。文輝に通信士はいない。ここで玉英の通信士に鳥を飛ばしてもらえばそれが最後だ。
 文輝の腹が決まったことを察した玉英は通信士を手招く。通信士がそっと二人の傍に寄った。

「では私とはここでお別れですね」
「大義姉上はどうされるのですか」
「私は軍医ですから、治療の必要がある場所に参るだけです」

 どことは明言しなかったが、多分戸籍班の書庫へ行くのだと察した。

「ご武運をお祈りしております」
「文輝殿もよい結果が得られますように」

 互いに互いの無事を祈り、そして文輝は白墨で記された書状の表書きを剥いだ。その中から、出てきた書状に目を走らせる。
 それは戦務長――劉子賢がこれから何をするつもりなのかを端的に記した書状だった。