かつて――ソラネンの街をテレジアと二人だけで守っていると思っていた頃のサイラスを思い出す。あの頃の自分と同じ、明日を知らない孤独を抱えているターシュを見ていると、そっと手を差し伸べたいという気持ちを想起させた。無力感に打ちひしがれて、それでも世界の真理を知りたくて煩悶している。そういう、向学心のある若者のことはサイラスも決して嫌いではない。王立学院で研究の傍ら、若輩と侮られても教鞭を取り続けてきたサイラスだからわかる。ターシュには間違いなく、描いている理想がある。その結末を実現するすべを知らないだけで、自らの未来を描けるのなら、いつか報いを受ける瞬間があるだろう。その為にターシュは今、研鑽を始めようとしている。
「姉さんの望みを叶えてあげられるのは兄さんだけだと思っていました」
「私がフーシャの望みを叶えられるとは限らないが?」
「いいえ。いいえ。そうじゃないんです。兄さんが先生の話をするとき、姉さんは羨ましそうな顔をしていました。自分の道を自分で切り開いた先生は、僕にとっても姉さんにとっても、兄さんにとっても、とても輝いた存在なんです」
「――ターシュ」
「見ての通り、僕は男らしさなんて何もなくていつも姉さんのお荷物でした」
それでも、とターシュは言う。ゴーグルを外す。虹の輝きを取り払って、美しく輝いた翡翠がこの距離にあってもはっきりと見えたのはテレジアの「眼」があったからだろう。魔術的な補助を受けて、サイラスの視力ははっきりとターシュの決意を見届けた。
「先生! 僕は行きたいんです! 連れて行ってください!」
そしてフーシャを守る存在になりたい。言い切ったターシュは彼が言う輝いた存在の一つで、サイラスと魔獣たちは顔を見合わせてそっと微笑んだ。
オリヴィアの果実をひと房、抱えたターシュが腰かけていた枝から飛び降りる。盗賊の生活が長く、俊敏性に富んだターシュの両足は軽い音を立てて地面に降り立った。サイラスでは決して真似の出来ない芸当に、職業がヒトにもたらすものについて軽く論じてしまいそうになるのを抑える。
「僕は――ずっと昔から薬師になりたかったんです!」
だから、魔術と薬学について学びたいのだ、とターシュは顔中を輝かせて言う。
オリヴィアの果実の半分をターシュはサイラスに分けてくれる。その樹液が触れるそばから、サイラスの手指の汚れをじわりと浮かしていく。間違いない。これはこの場で最良の洗剤だろう。
知識、探索力、記憶力、判断力。どれひとつをとってもターシュには才がある。
磨けばきっと有能な学者になるだろう。
予感したサイラスは目を細めて笑った。美談の一つにでもなりそうな光景に魔獣たちが溜め息を漏らしてサイラスの肩を叩く。振り返るとそこには無表情で突っ立っているフーシャの姿があった。彼女の後ろからやらかした感をまとったリアムとシキがやってくる。魔力を持たない純粋騎士は瞬き一つで謝意を伝えた。曰く、すまない、どうしても止められなかった、とのことだ。
長身の女盗賊は低い声でターシュの名を呼んだ。
「オレぁ、そいつは初耳だぜ」
「――姉さん、あの、それは」
弁解をしようとターシュが言葉を詰まらせる。
裏切りもののと罵られるのか、姉不孝ものと詰られるのか。身構えたターシュへとフーシャの声が遠慮なしに襲い掛かった。
「昔っからそうだ。テメエはいっつもオレには何も言わねえ。オレの顔色ばっか気にしやがってよ、テメエは何がしてえんだって聞いても、オレに合わせてそれで満足みてえな顔しやがるし、そういうとこが気に入らなかった」
「――っ!」
「けどよ、あるんじゃねえか。テメエにもちゃんと夢があったんじゃねえかよ」
オレがずっとそれを押さえつけてきたんだな。
その言葉には無力感がありありと浮かんでいて、フーシャの後悔を雄弁に語った。不思議なのは後悔に満ちているその声に喜色が滲んでいることだろう。弟が夢を持っていて、その実現の為に前に進もうとしているのを素直に喜べないフーシャだがこれ以上、ターシュの足かせになりたくない。その気持ちも確かにある。それでも、彼女も知っている筈だ。フーシャが厭えばターシュはこの森から決して出ていきはしないということも、それでもターシュが夢を描き続ける、ということの両方を。
「ターシュ」
「は、はい! 姉さん」
緊張して委縮したターシュに鋭いフーシャの声が問う。
同じ赤茶色の髪なのに、長さが違うだけでこんなにも印象が変わる、というのは意外だなとサイラスは思いながら二人の盗賊の会話を眺めていた。シキもまた傍観者の顔をしている。慌てているのはこの山林の中ではリアムとターシュの二人だけだ。
不器用な連中だ、とサイラスは苦笑する。そういう自らもまた不器用の権化なのを棚に上げてサイラスはこの二人の論争の終着点を予想した。多分、満更悪い答えにはならないだろう。今まで弁論を何十、何百と経験してきたサイラスだからわかる。それに加えて、今はフィリップの聴覚もある。二人の声音からは後ろ向きさが一欠けらも感じられれない。前向きな、姉弟喧嘩だった。
「行きてえのか」
「姉さんが本当に駄目だって言うのなら――諦めます」
「嘘吐くんじゃねえよ、ターシュ。テメエ、今、モヤシに連れっていってくれっつったじゃねえか」
「姉さんの気持ちを否定してまで叶えたい願いなんて僕にはありません」
「この大馬鹿野郎! テメエには自分の考えってのがねえのか! オレは――オレは、テメエに我慢させるだけのつまらねえ姉貴になんてなりたくねえんだよ」
それが、多分、フーシャの偽らざる本音なのだろう。二人して互いの荷物になることを恐れているのは互いが大切な存在だからだ。世界にたった一人しかいない家族を失いたくなくて二人の道は絡まり、もつれ、複雑な様相を呈している。外から見れば一目瞭然だし、二人が円満解決を望んでいるのなら手を貸してやるのは決して無駄でも何でもないだろう。
「ならばそこの馬鹿の言う通り、二人でこの森を出てはどうだ」
「テメエには――関係あるかもな」
モヤシのくせに。短く吐き捨てたその声は決して冷たくなかった。受容、緩和、諦観、そして許容。フーシャがサイラスに何を見出したのかは判然としない。それでも、今、彼女の双眸には希望が灯っている。