剣戟の響きが津(みなと)を支配している。
何合も切り結んだ文輝(ぶんき)の直刀はぼろぼろで、既に修復することは叶わないだろう。中科(ちゅうか)を受けた春に父親がくれた特別な得物だったが、文輝が真実、守るべきものの為に賭した結果なのだから恥じる必要はどこにもない。この戦いに敗れ、処断されることになったとしても、文輝の気持ちは変わらない。
晶矢(しょうし)と玉英(ぎょくえい)の援護を受け、文輝は右将軍(うしょうぐん)の間合いに飛び込んでは、反撃を受けるすんでのところで退いてを繰り返している。その間にも玉英の通信士は紫の伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばし続けていた。薙ぎ倒された禁裏(きんり)の守兵たちも命のあるものはぽつぽつと立ち上がっているが、どちらに加担すればいいのか、困惑を顔に浮かべている。
正当な国主を名乗る男、右将軍だと紹介された男。その二人の代弁者たる戦務長(せんむちょう)。彼の主張を認めればいいのか、状況を淡々と見守っている宰相(さいしょう)に従えばいいのか。その判断をする為の根拠が足りない。
そんなことはわかっている。
当代の国主、朱氏(しゅし)景祥(けいしょう)が出てきて自らの正当性を立証出来ればそれに勝るものはない。だが、当の景祥自身は天意に全てを委ねようとしている。無責任だ、という憤りが文輝の中に湧いた。
九品(きゅうほん)は譜代の家系だ。生まれたその日から国益とは何かを説かれ、その為に研鑽する。有事にあっては国防を最優先し、決してあるじを裏切ることはない。
その、九品が拝戴するべきあるじは常に一人だった。だからこそ、九品は統一見解を持ち、暗黙的に協力し合ってきた。だのに戦務長は二人目のあるじを連れてきてしまった。
九品である文輝たちですらその事実に戸惑っている。白襟たちに動揺するなというのは些か無理が過ぎる。
官が、民が迷っている。そんなときにこそ旗頭として立つべきものが身を隠している。宰相がそれを提案した理由と感情は理解出来る。出来るからこそ、文輝は憤っていた。
天意に身を委ねるというのは聞こえがいいが、責任放棄だ。白帝(はくてい)の加護を受けているのならば、この場に現れても守られるだろうし、加護が失われたのであればどの道、景祥の命は失われる。真実、国を思うのであれば景祥は矢面に立つべきだ。
だのにそうなる気配はない。
右将軍の長槍が鋭く突き出される。脊髄反射で顔をそむけたが、間に合わず頬に鋭い痛みが生まれた。のけぞった勢いで文輝は後方に転がった。晶矢の追撃が間を置かず飛んだことで、無防備な体勢に追撃が来なかった。玉英がちらと文輝を見る。頬を手の甲で拭った。生温かい液体に触れる。まだ生きている、ということはまだ戦える、ということだ。
宰相と通信士が何を思って伝頼鳥のやり取りを繰り返しているのか、文輝にはわからない。紫の鳥は今も離発着を繰り返している。
「大義姉上(あねうえ)、俺たちはあと何刻持ちこたえればいいのですか」
「少なくとも、仲昂(ちゅうこう)殿がここに辿り着くまで」
「黄(こう)将軍、それでは首夏(しゅか)の命がなくなる方が早い」
わかっています。呟くように答えた玉英がぐっと唇を噛む。文輝は華軍(かぐん)との戦闘で既に負傷している。その後、二度にわたって処置を受けてはいるが刃傷が回復する為に必要な時間が経過していないことは、医師である玉英が一番よくわかっている筈だ。
「叔父上、まだなのですか」
玉英が飛刀を右将軍に向けて放つ。金属音が闇に響き、続けて石畳の上を刃が滑る音が聞こえる。晶矢が奪った矢筒の中身ももう残り少ない。放り出された別の矢筒を更に奪うことは可能だろうが、限りがある。宰相が本当に問題を解決するつもりがあるのだとして、この無謀な戦闘がそれまで続く保証はなかった。
「玉英、いま少し待て」
「叔父上!」
殆ど叫ぶように玉英が宰相を呼んだ。それと前後して、後方から長靴が駆ける音が聞こえる。どちらの加勢か、判断出来ずに文輝たちは身構える。反逆者が王府(おうふ)を抜けてきたのだとしたら、文輝たちには抗う術すらない。捕縛で済めば運がいい方だ。
闇の中に響く音にすら構うことなく右将軍の攻撃は続く。体勢を立て直した文輝の右側から横なぎが飛んできた。三人がかりですら右将軍を止められない。本当に命を落とすのか、という不安の中、聞こえた声が文輝を鼓舞する。
「小戴(しょうたい)! よく耐えた!」
振り返る必要はない。この声は進慶(しんけい)の声だ。それを認識するのと前後して、長剣が右将軍へ斬りかかる。金属音が夜闇を切り裂いた。
進慶の斬撃を援護するように無数の矢じりが飛ぶ。その段になって文輝はようやく後方を振り仰いだ。御史台の部隊、顔を知っている十五名が進慶に同道している。限界を超えて戦闘を続けていた文輝たちに代わり、御史台の部隊が防衛戦を引き継いだ。
進慶も含めて前衛が五名、残りの十名が後衛。そして通信士として志峰(しほう)が控える。彼の肩には未だ紫の鳥が載っている。その尾羽を確かめずともわかる。あれは玉英の通信士が飛ばした伝頼鳥だ。
息が上がり、喉の奥では鈍い味がする。それが文輝に自らが生きていることを実感させた。安堵と疲労と、そしてくすぶり続けている義憤との間で文輝は揺らぐ。
玉英の肩を借り、宰相と伶世(れいせい)が待機する場所まで退いた。
「叔父上、あのものたちは?」
玉英が疲労困憊の体で宰相に問う。
宰相は表情一つ変えることなく、額面通りの言葉を返した。
「見ての通り、御史台のものだ」
「内府の制圧が終わったのですか?」
内府の制圧が終わったのならば、御史台だけでなく次兄の率いる師団も到着する筈だ。だが、実際に津に現れたのは進慶と一部隊だけでとても内府が鎮圧したとは考えにくい。だが、内府、王府を通らなければ禁裏には辿り着けない。
いったい、彼らがどこから来たのかと重ねて玉英が問うた。
「内府はもうしばらくときがかかる」
「では」
「そなたらが通ってきた道のりがあろう」
王府を経由せずとも禁裏に辿り着ける道がある。文輝たちが一縷の望みを託して駆けてきた道だ。だが、その道のりを示す地図は今も文輝の懐にある。近衛部(このえぶ)が立ち位置を覆し、文輝たちの肩を持ったのかと思ったがそれならば内府の制圧に、こうもときがかかる筈がない。
玉英がしばし思案して、結局は宰相に問う。
「王陵の地図は文輝殿が持っておられます。複製を用意する暇はなかった、と私は認識しておりますが」
それとも、誰かが――現状で言えば宰相自らが王陵の地図を伝頼鳥に託したのかと重ねて問えば、暗闇の向こうから静かに怒る声が響いた。
「己(お)れをあまり見くびるな、黄将軍」
「大仙(たいぜん)殿!」
どうして彼がここにいるのか、という驚きが名を呼ばせた。左官府で別れたときとはまた違う服装をしているが、殺気に近い怒気が彼であることを雄弁に物語っている。この悪辣な雰囲気は間違いがなく、大仙のものだ。
棕若と彼の通信士の警護を任せた筈だが、残り二人の姿は見えない。
「大仙殿、孫翁(そんおう)はどうされたのですか」
「責任を取って残った。事実上の人質だ」
孫棕若(しゅじゃく)の首級を懸けて、過ちがないことを誓った。大仙と進慶たちはそれと引き換えに王陵に立ち入ることが許されたから、動乱が成れば棕若の命は保証されない。
そんなことを訥々と大仙が語る。眼差しだけは爛々とした輝きを持っているが、満身創痍であることは何も変わらない。進慶たちより遅れてきたこともそれを裏付けていた。国主の間諜であるという矜持を傷つけるだろうに、乱れた呼吸を整えることも出来ない。
文輝は、大仙を突き動かしているものと自らの中にあるものの隔たりを知った。
「玉英、よく覚えておくがよい」
主上の間諜であるには一等秀でた能力を求められるものだ。
宰相がしばし瞑目する。そして再び開いた瞳で大仙を射た。そこには何らかの覚悟のようなものが浮かんでいて、文輝の耳は束の間、剣戟の響きと別離する。
「このものは一度見たものを決して忘れぬ。書状も図案も地図も、例外は一つとしてない」
「小戴、お前が己れを名指したときには見抜かれたと思ったが、どうやらただの幸運だったらしいな。だが、運も実力のうちという。己れはお前の裁量を評価しよう」
閣下、もう十分でしょう。言って大仙が踵を返す。文輝の視界に映った大仙の背中が、幕引きを暗示する。多分、彼は今から国主のもとへと行くのだろう。複雑な色を灯した宰相の瞳が今一度閉じては開く。音もなく宰相の唇が命を紡いだ。たった二音。行け。それを受け取った大仙が今までの疲労など感じさせない俊敏さで駆け出す。文輝はそれを見届けるので精一杯で、右将軍の向こうで戦務長がどんな顔をしているのかを認識する余裕はなかった。
玉英が言う。
「叔父上。いえ、閣下。御史台は調べを終えたのですか」
力強い笑みが返る。宰相の表情は未だ複雑さを保っていたが、その瞳には確信が浮かんでいる。宰相の必要とする情報は全て揃った。そのことを文輝たちも理解した。
玉英の通信士が役目を終えたとばかりに石畳の上に崩れ落ちる。「まじない」を酷使し続けた彼は心身ともに消耗している。
その、尽力の結果を宰相は両手に収めていた。
「そなたの通信士は実に有能であったぞ、玉英」
「閣下、では――」
大仙の背中が消えた闇夜を一瞥して、宰相はすっと眼差しを引き締める。棕若よりも幾つか若いがそれでも壮年の域に達しているだろう。その容貌から張りつめた声が漏れる。剣戟の響きを切り裂き、右将軍と御史台の兵たちを飛び越えて、その声は鳴り渡った。
「そろそろ茶番に幕を引くがよい。今ならまだそなたらの釈明も聞き届けよう」
証拠は既に揃っている。あとは真実の証明を残すのみだ。
言って宰相は紫の料紙を開いた。
「右将軍、そなたは何の為にその槍を振るう。そなたを右将軍だと見出したものは、そこな男ではあるまい。名を呼べと私は申した筈だな。字(あざ)しか呼べぬ国主が陛下の寵を受けている道理がない。偽りがあるのは自明。その件について反論があるのであれば申してみよ」
それとも、右将軍というのは陛下ではなく、自らを見出したものを拝戴するだけの存在に成り下がったのかと畳みかけるように言葉が続く。右将軍の長槍がその言葉を受けて揺れる。
右将軍が右将軍である所以は、彼の内側にある。人として生まれ、人として育ち、あるじに見出されて初めて自らが人でなかったことを知る。その証明を「新王」は成した。だから右将軍は「新王」に頭を垂れる。
だが「瑞丹」というのは右将軍の字であり、名ではない。右将軍の字を知っている時点で国主としての正当性の一部は示された。だが全てではない。「新王」が真実国主足りえるのであれば、名を呼べと宰相は煽ったが、「新王」がそれを成す兆候はない。
状況が変わりつつあることを察した「新王」が狼狽する。戦務長が詭弁であると憤慨した。
「瑞丹将軍、義はこちらにある!」
迷うな、と戦務長が叱責したが右将軍の槍は構えを解いたままだ。
宰相は静かにそれを見届けて言う。
「右将軍、そこにおる男が『新王』ですらないことは知っておろう。そなたを見出したのはそこな『新王』ではない筈だ。違うのならば申し開きをするがよい」
出来ぬだろう。言った宰相の顔には酷薄な笑みが浮かんでいる。対照的に戦務長は激昂し、繰り返し右将軍を叱咤した。その段階で、文輝にも真実の一端が見え始めていた。
多分。
右将軍を見出した「新王」は戦務長だ。だのに彼は自らを偽り、別の「新王」を擁立した。「新王」が王位を継承し、戦務長が宰相の位に収まれば権威も政の実権も戦務長が手にすることになる。国主、右将軍、宰相。その三者が揃っている時点で、この国は戦務長の思うようになっていくだろう。その際には「才子」と「環」という二つの仕組みが失われる。戦務長は率先して環を偽ることで旧態を否定しようとしている。
そこまでを茫洋と理解して、不変の価値観などないことを向き合う。
「読替」の罪科。六色に塗り分けられ、決して交わりあうことのない環。話すことはおろか、その目で見ることすら叶わない白帝という存在。その寵を受け、国を統治してきた国主。国益の為に育ち、生きる九品。家格の壁が作り出した暗黙的な隔たり。
その一つひとつが積み重なって、軋轢となっている。文輝の認識の中にはなかった、その淀んだ悪感情が楔として胸の内に打ち込まれる。
年端もいかぬ子どものように泣き喚いて、その事実を否定したい。受け入れたくない。この国は美しく整ったままだと信じたい。
それがただの幻想であることを知ってしまった。人を殺す痛みも知った。人は文輝が思うほど純朴でも善良でもない。
宰相の声がそれを肯定していく。
「劉子賢――いや『偽王』よ。先王の血を受け継いだのはそなたであるな」
「馬鹿なことを言うな! こちらにおられるのが――」
「主上! もうおやめください!」
もう偽りはたくさんだ。右将軍が今にも泣き出しそうな顔で叫ぶ。松明に照らされた彼は表情どころか体全体で彼のあるじたる存在に懇願していた。瑞丹、ぽつり呟いた戦務長の顔が動揺に染まる。
動揺に染まったが、それは怒りには変わらずに消えた。文輝の知る限り、戦務長は理知的な官吏だ。自らの望みが潰えようとしているのに気付かない筈がない。圧倒的不利から戦務長の切なる願いが始まった。西白国の多くのものは国を覆すことなど出来ないと思っている。その、絶対的な価値観を十五年かけて一縷の希望に変えた。
絶対などない。
絶対な正しさなどないと岐崔に示した筈なのに、そのやり方は多くのものを傷つけた。
そのことが右将軍の悲痛な叫び声で戦務長に届けられる。
どんな方法を使い、どんな弁でこれほど多くの官吏を取り込んだのか、文輝には想像もつかない。戦務長自らが存在を見出し、右将軍として忠節を誓ってくれた相手に偽りを強いて、そうしてまで得たかったものは既に失われようとしている。
「『偽王』よ、そなたの策謀、見事である」
「宰相、お前なら知っているだろう。俺は真実、先王の血を受け継いでいる。疑うことは一切許さぬ。そうだろう、黄碌生(こう・ろくしょう)」
戦務長を射る宰相の冷えた眼差しが一瞬揺れる。ただそれだけのことだったが、津にいた白襟たちには何かが伝わった気配があった。中城から来た二人の通信士も同じように納得した顔をしている。戦務長が何かをしたのだ、というところまでしか文輝にはわからない。晶矢にしてもそれは同じだったのだろう。暗闇の中、揺れる眼差しでお互いに問う。答えが出ない。
中科生である文輝たちが知らないで、白襟たちが知っている、その「真実の証明」が文輝の身に降りてきたのは次の瞬間のことだった。
「戴(たい)文輝、程(てい)晶矢。これが国主であることの唯一無二の証明だ」
戦務長が疲れ切った顔で文輝の字を呼ぶ。その刹那、文輝の頭の中で清涼な土鈴の音が鳴った。文輝はこの半年、戦務長からは「小戴」と呼ばれてきた。字を知っていたのか、という驚きが生まれたが、土鈴の音がそれを一瞬で凌駕する。
文輝の字を知っているのはまだ理解出来る。だが、晶矢と戦務長には接点がない筈だ。その疑問は晶矢自らの口で問われる。
「劉校尉(こうい)、私は貴官に名を申し上げた覚えがない」
「違っていたか? だが俺の目にはそう見える」
「貴官の仰ることがよくわからないのだが?」
困惑を顕わにした晶矢に、戦務長が苦く笑った。そして、彼の前に立っていた右将軍に歩み寄る。右将軍の傍らに立ち、戦務長が「九品でも知らぬことがあるというのは存外愉快なものだな」と言うのを引き継いで宰相が文輝たちに告げた。
「国主の素質のあるものには名が視える、のだそうだ」
「名が、視えるのですか?」
「俺に視えたのは字までだったがな」
だから、戦務長は初対面である晶矢の字を呼び得た。通常、人は相手の名は勿論、字ですら何の紹介もなく知ることはない。名、というのは人の本質を現す。その名を委ねる相手を選べるというのは万民が持つ数少ない権利の一つだ。だから、この国では相手への呼称が幾通りも存在する。
それを飛び越えて、名や字を直接呼ぶのは無礼に当たる。
戦務長のしたことは、本質的な嫌悪感を生んで当然の行為だったが文輝たちにその感情は降りてこない。
その代わりに土鈴の音が響いた。この音は何だ。
問えば、宰相が苦々しく「それも国主の素質の顕現したものだ」と口にした。華軍の告発文には「才子」が「まじない」を使う際に鈴の音が鳴る、という文言があった。その音と国主の音は違うのだろうか。華軍が戦務長と出会ったときにも、土鈴の音がしていた、という記述がなかったか。それが正しいのであれば、戦務長はやはり国主の座にあることを白帝から許されているのではないか。束の間思ったが、戦務長が自嘲気味に言った「字までだった」という言葉が耳に蘇る。そもそも、戦務長はいつから名が「視えて」いるのだろう。華軍と出会った時には「視えて」いなかったと文輝は受け取った。だが、その当時、戦務長は既に「劉子賢」を名乗っている。
事実と憶測の間で揺れる。
答えの実像があまりにも巨大で、文輝の脳漿の中に描ききれない。
問わなければならない。そのことだけが必死に明滅しているが、何をどう問うべきかがわからない。
言葉を整理せずに吐き出したい衝動に駆られる。その、言葉が音に変わる刹那、文輝の耳にひと際高く、土鈴の音が響いた。戦務長の鳴らした音の比ではない。はっきりと透き通る音が鳴った瞬間、叩頭していたのは文輝だけではなかった。戦務長と右将軍の二人を除いた、その場にいる全員が音源に向いて平伏している。
「黄融(ゆう)、口が過ぎる」
そなたはほんに多弁であるな。
誰の声かなど確かめるまでもない。これは二年前、環を授かったときに高段から聞こえた声だ。冷汗が背中を伝う。本物の国主だけが持つ威圧感に文輝は畏怖を覚えた。
硬直した空気に時間が止まったように感じる。永遠にも近い、けれど実際はほんの僅かの間を置いて両の足で立ったままの戦務長が檄した。
「今更何をしに来た、朱氏」
景祥、と字が続かなかったのは多分、戦務長なりの侮蔑なのだろう。人の字が視えると言った彼には国主の字も視えている筈だ。それでも、出自を示す呼称を用いる。ただの血統で呼ぶことで戦務長は景祥の人格を否定した。
その一連の感情の一切を無視して景祥は右将軍と対峙する。
戦務長を庇って立った右将軍は動揺している。土鈴の音を鳴らせるあるじが二人いることが戸惑いを生んでいた。それでも、彼が本物の右将軍なら気付いた筈だ。戦務長の音は景祥の音に遥かに劣る。
そして。
「姫尚(き・しょう)、そなた迷っておろう」
新しい名が呼ばれた瞬間、津に今一度土鈴の音が響く。右将軍の名が呼ばれたのだ、と察するのに一拍の間が必要だった。宰相が再三要求した「真実の証明」が成された。それでも、なお右将軍は膝を折らない。何が彼にそうさせるのかはわからない。この十五年、彼と戦務長の間にどんな信頼関係があったのかもわからない。
ただ一つだけ、文輝にもわかることがある。
右将軍は国主の為に存在するが、人としての感情を持っている。
その感情が、真実よりも信頼を重んじた。
だから、右将軍は彼の後背に立つ戦務長を売り渡さない。
それを無礼と受け取った大仙の声が叱責する。
「右将軍、控えよ。主上の御前である」
「お断りいたす。我があるじは既にこちらにおられる。それに」
「それに?」
「そなたのごとき下官に指図される謂れはない。我は真実、白帝陛下より勅を賜った右将軍である。それを疑うのであれば、首を懸けて問うがよい」
我に問いを投げるには安すぎる首ではあるが。
冷笑が漏れる。右将軍の声に迷いはあるが、それでも国主と相対して委縮している雰囲気はない。文輝は束の間、作法を忘れて顔を上げた。御史台の兵たちが伏したその向こう、堂々と立った右将軍の姿を見て、心が揺れる。
何がどう正しいのか、十七年間叩き込まれてきた教えだけが全てではない。系譜に偽りがあり、出自は改ざんされ、歴史は美しく作り替えられた。
それと知ってなお盲目的に国を信奉することが出来ない程度には文輝にもまだ自我が残っている。
正しさとは何だ。
その答えが見つからない。揺れる文輝の背後から宰相の声がする。
「では私の首であれば役に足るであろう。右将軍よ、主上は真実の証明をされた。これ以上、貴官は何を示せと言うのだ」
「白氏である以上、名を呼ぶ方にお仕えするのが中道。確かに、そちらの方は我が名をお呼びになられた」
「では何が足りぬ」
「『何が足りぬ』? 本気で仰っておられるのか、宰相殿」
「どういう意味か」
「十五年だ。十五年もの間、そちらの方は王座にただお座りになり、我を見出そうともなさらなかった。我が主上は確かに字しか視えぬ。土鈴の音も呼んだ相手にしか聞こえぬ。質も悪い。だが」
この方は我を見出し、民を思って旗を掲げられた。
全てはそれに尽きる、と右将軍が締め括る。その憤りを聞いた瞬間、文輝の胸の中に何かがすとんと落ちてきた。
景祥が何を思って自らの存在証明を繰り返していたのかはわからない。名が視え、それを呼べる。国主だと主張するのに何が不足していたというのだろう。「才子」以外にも国主の証たる音が響く。だから宰相をはじめとした諸官は彼に頭を垂れてきた筈だ。
御史台で大仙が景祥の出自を明かしたときとは違う感情が文輝の中にある。
ほんの数刻前には白帝からの天意があるかどうかを問い続けている景祥に共感して心が痛んだ。そこまでして、彼は国主の座にあることを憂えていると思っていた。
だが、右将軍や戦務長の主張を聞くとそれが短絡的で感情的な結論であったのではないかと疑い始めている。
「右将軍、盲信も大概にせよ。民を思うものが岐崔に火を放つ道理がない」
「国官であるにも関わらず、自らのあるじを正そうともしない。偽りの安寧に身を委ね、十二州で起こっていることに関知しようとしないものを民と呼ぶのなら、そうだろう。岐崔に住まうものだけが民か。その道理が通るのなら我は民ではない。ゆえに我は我のあるじを自ら決める。そちらにおられる方とは戴く天が違っていたのであろう」
「詭弁である。天は一つしかない。陛下の寵を受けられるのは主上おひとりである」
「では何ゆえ、そちらの方は自らの心痛ばかりを大事にされるのか。本当に我のあるじであるのであれば、何ゆえ我を探そうともなさらなかったのだ。何ゆえ、我が名を真っ先に呼んではくださらなかったのだ」
答えよ。
その殆ど慟哭に近い主張に文輝は頭を強か殴られたような衝撃を受ける。
文輝は岐崔の外を知らない。知ろうと思ったこともない。岐崔で生まれ、岐崔で育ち、岐崔で生きると勝手に決めていた。だから、中城と城下さえ安寧であればそれでよかった。
それを乱した存在、すなわち排除すべき悪であると一方的に断定し、何の調べにも加わらずに美しい理想で裁こうとしている。その罪深さに遅ればせながら気付いてしまった。
九品は国を裏切らない。
その意味をはき違えていたのではないか、と不意に疑問が湧く。九品が裏切ってはならないのは、国益だ。国益が守られているからこそ、文輝たち国官は俸禄を受け取る。その、禄になるもとを生み出しているのは何だ。民が納める租税だ。岐崔の外、十二州が満ち足りてこそ、租税の回収が滞りなく行われる。仕組みは理屈でわかっていた。わかっていただけで、本当は何も理解していなかったのだと気付く。
文輝が見習いとはいえ、官位を授かっている以上、文輝の禄を生み出す民が国のどこかにいる。九品が守るのは国主ではない。その、禄を納める民そのものなのではないだろうか。
そして。
自らの正当性を問い続けるだけで、本来行うべき努力を怠った景祥は国主としての資質を失しているのではないか。
戦務長が巻き起こした動乱は決して許されるものではない。どんな理由があったとしても、戦務長は多くのものを傷つけた。
それでも。
それでも、と文輝は思うのだ。
白帝に運命と決められた、仕えるべきあるじに反旗を翻してまで何かを成そうという右将軍ほどの気持ちが文輝の中にあっただろうか。文輝の中にある何をもってしても、右将軍の行いを否定することは出来ないのではないだろうか。
脇腹の傷よりも、ずっと鋭い痛みが文輝の胸を抉る。
正しさとは何だ。忠孝とは何だ。
文輝が今、成すべきことは何だ。
答えに辿り着かない。それでも、この命題の証明は自らが成さなければならないことだけがわかる。長考したまま、頭を下げない文輝に小声で叱責が飛んだ。
「首夏、何をしている。主上の御前だぞ」
「でも、暮春」
「でも、も何もない」
早く頭を下げろ。晶矢が強い語調で文輝を詰る。
晶矢の向こうに玉英、そして大仙、景祥の姿が見えるが、不思議と畏怖は薄れていた。
本来ならば目を合わせることすら許されない存在だ。わかっている。それでも、文輝の目には神の威光はもう見えなくなっていた。
「お前はそれで納得してるのかよ」
「劉校尉の弁に感化されたのか。何がどうだろうと、陛下の寵を受けるのは主上おひとりだ。その事実が変わらない以上、わたしたちは――」
「主命に何の疑問も持たないで首肯し続けるのが九品、か? 主上は今日一日、俺たちの為に何をしてくださった? 俺たちが必死に中城を駆けずり回っていた間、主上は一体何をなさっていたんだ? 主上が真実この国のあるじであるなら、この動乱は主上が収めるべきじゃないのか?」
白帝の加護を受けた正当なる国主だということは名を呼べば示される。現に、今、景祥は「真実の証明」を成した。最初からそうしていれば、誰も、何も傷付かなかったのではないか。少なくとも「新王」が立った十年前にその存在を「偽王」だと否定していれば、戦務長の計画は頓挫した筈だ。
分岐点は幾らでもあった。
その全てを見過ごしてきたのは誰だ。国主、宰相、内府、右府、左府。岐崔で政を成してきたその誰一人、何の対処もしなかった。その結果が今だ。城下は焼け、中城は混乱を極めている。内府の機能は停止し、国主を守る盾である銀師ですら静観という手段を選ぶしかない。
それらの状況が雄弁に物語る。
文輝の信じていたものは一方的な側面しか持たなかった。
晶矢にはそれが見えていないのか。それとも、片方の主張だけを盲目的に信奉することを選んだのか。小声で、それでもやや強い語調で問い返す。
言葉に詰まった晶矢に代わって、玉英がたしなめるように言う。
「文輝殿、それは全てが終わった後で質しても間に合うのではありませんか?」
「大義姉上、ではあなたは戦務長――劉校尉の主張の一切を無視し、反逆の罪で無慈悲にも裁き、何の反論も許されなくなった後で全ての責任を校尉に押し付けるのをよしとせよと仰るのですね?」
「律令によれば反逆は死罪相当。情状酌量の余地があったとしても、『新王』を語り、岐崔を焼いた罪は決して軽くはないでしょう」
「律令によればそうです。俺も、斬首が妥当だと考えます」
「では」
「その判断の上でお尋ねします。律令の別の条文で、罪を犯せば三親等以内の血族には『読替』の罪科が科される筈です。劉校尉の父君が、本当に先王であるのなら主上の異母兄弟、つまり三親等以内の血族に当たりますので、主上は『樊(はん)』の名を負い、国主の座を辞されるのが妥当だと思われますが、その件についてはどうなされるのですか」
言ってはならないことを言った。わかっている。九品として、国官の見習いたる中科生として、臣民として言ってはならないことを言っている。位階を無視して、雲上人に意見するなど決して許されないだろう。
それでも、文輝は問わずにはいられなかった。
十七年しか生きていないから言える。九品の三男だから――家を継ぐ覚悟もないから言える。馬鹿げたことを言っているという自覚はある。
だから、詰られるのは予想していた。
呆気に取られて反論の言葉を紡げない玉英の更に後ろから怒声が飛んだ。多分、ここまでは想定していた。
「小戴、馬鹿なことを言うな! 主上に何の罪科がおありになるというのだ!」
強いて言うのならば優柔不断だった。判断が遅かった。その程度のことで、別段罪科を問われなければならない理由などない。
それでも。
「『読替』というのはそういう罪科ではないのですか? 厳しすぎる罰を科すことで、罪を犯すことを未然に防ぐ。意図的に下流に位置付けられた存在があることで、律令を遵守する多くの民は安寧を得る。華軍殿も、志峰殿もご自身には何の非もなかったにも関わらず、その理不尽に耐えてこられた。臣民に不条理を押し付けて、主上御自らがその痛みを免れることなどあってはならない、と俺は思います」
「読替」の罪科さえなければ華軍は死なずに済んだかもしれない。生まれたその瞬間から、人として当然の権利すら失い、正負どちらの意味でも国に報いる為に研鑽した。その、苦しみを平然と踏みつぶして、国主であるというだけで守られるのは決して許されることではないだろう。
少なくとも、文輝の目にはそう映る。
それを見なかった振りで見過ごして、戦務長だけを処断して、そして何もなかったかのように岐崔が復興するのを見ている自分に納得したくない。理想が過ぎるのかもしれない。青いと嗤わられるのかもしれない。
それでも。
華軍は文輝に望みを託した。抗弁を許された機会に、ただ文輝自身を信じろと言った。その気持ちを踏みにじってまで保身に回ることは文輝の矜持が許さない。
誰かが賛同してくれるとは期待していなかった。
十七歳の弁論にそれだけの価値がないことは文輝自身が一番よくわかっている。
それぞれの価値観で、沈黙が場を支配する。
ぽつり、呟いた声がそれを切り裂いたとき、多分、一番驚いたのは文輝だ。
「小戴、正気か」
驚きに満ちた声だった。右将軍の後ろで、戦務長が信じられないものを見た、という顔をしている。国を覆そうとした。それでも、本気で覆せるとは思っていなかったのかもしれない。利用出来るものを利用してきただけの戦務長の中に、信じられるものはどれだけあったのだろう。多分、彼の中で文輝もただの駒の一つだったに違いない。
だから、文輝が戦務長の為に抗弁しようとしているのが理解出来ないのだろう。
「戦務長、あなたが何のつもりで俺を用いたのかは知りません。多分、お聞きしても、俺には理解出来ないでしょう」
「ならば」
「偽りの環を利用した、とお聞きしています。ということは、当然、俺の人事にもあなたは介入された、と思うのが筋。そこに至るまでにいかなる理由があったのかはわかりません。それでも」
「何だというのだ」
「あなたが俺という存在を望まれた、という現実は誰にも覆せません」
利用されたと憤慨すればいいのだろうか。裏切られたと泣けばいいのだろうか。
その答えはまだ文輝の中にない。戦務長の返答を得ても、きっと全てを満たせるなどということはあり得ないだろう。
だから。
「自己満足でいい。欺瞞と言われてもいい。俺は、あなたが俺を望んでくださったことを否定したくない」
「俺はお前に何も望んではいない。貴族の坊ちゃん程度に何がわかる」
鼻先で嗤われる。十七の文輝に期待出来ることなど何もない。はっきりそう言われても、文輝の気持ちは折れなかった。
「何もわかりません。ですから、俺は思うのです」
「何を」
「わからないからこそ、わかることもあるのではないでしょうか」
「小戴、その程度の思い付きで――」
「思い付きではありません」
「では何だと言うのだ」
今日一日で折り重なったものを一つひとつ噛みしめる。安寧の岐崔が失われる不安。国を思うがゆえの憂い。人を殺める痛み。人を信じるという気持ちの重み。
万有の価値観などない。人にはそれぞれの志がある。交わらない道を否定することの罪深さを知ったが、見えもしないものを守る方法などわからない。
それでも。
文輝は気付いてしまった。
志を貫きたいのなら、自ら答えを選ばなくてはならない。
その為には上辺だけの知識や教養では足りない。綺麗ごとで誰かを裁くなんていうのはただの傲慢だ。そんなものは誰も救わない。誰も犠牲にしない志などない。
だから。
「戦務長、俺はあなたを守りたいわけではありません。あなたに理想を転嫁したいわけでもない。ただ」
「ただ?」
「誰か一人を裁いて全ての問題を解決する、だなんて短絡的な処置には何の意味もない。それでは根本的に何も変わらない。年月を経れば同じことが繰り返される」
それは文輝が生きている間に起こるかもしれないし、死んだ後になるのかもわからない。現実に即していない政は軋轢を生む。そうとわかっていながら、位階や家格、血統といった肩書に縛られて国が滅んでいく様子を見守るのが白帝の授けた宿命だというのなら、文輝は神に祈らない。
「陛下も主上も関係がない。誰が本当のあるじでも、守るべきものを蔑ろにせよという命には従えないし、天意に振り回される政には賛同出来ない。人の世はそこで生きている人によって守られるべきだ。俺は、華軍殿のように苦しむ方をこれ以上増やしたいとは思いません」
力は武に非ず。威は官に非ず。すなわち武官とは私(し)に非ず。
「諸志」をはじめとした「五書」が無価値だとは思わない。人として、官吏として必要な徳を説いていると今でも思う。「諸志」が語る理想と文輝が向き合っている現実との間には乖離があるが、その隙間を埋める努力を放棄するのなら、最初から国官など志すべきではない。武官は私人ではない。それを今一度噛みしめた。
殆ど殺気と呼ぶべき怒気を放っている大仙も、苦虫を噛み潰したような顔をしている玉英も、俯いたまま顔を上げない晶矢も。御史台の兵たちも白襟も、それぞれがそれぞれの答えを胸の内に持っている。その一つひとつを否定したいのではない。
武力という力で、権威という力で人をねじ伏せて、そうして得たものだけを正しいというのなら文輝は間違っていても構わない。
十七歳の青い理想論に津が困惑していた。
その困惑を今一度切り捨てたのは土鈴の音だ。
「黄融」
景祥が宰相の名を呼ぶ。その刹那、宰相は正気を取り戻し、わざとらしく咳ばらいをした。そして、忌々しさを隠しもせずに文輝の言葉を遮る。
「小戴、妄言も大概にせよ。九品とはいえ、そなたもまだ十七。今、そなたが口を噤むのであれば主上は不問に処すと仰っておられる」
「まだ申し上げ足りぬことがある、と言えばどうされるのですか」
「これより後にそなたが申したことは戴家全体の見解であると受け取るほかあるまい」
それでもなお申し足りぬことがあると言うのならば好きにせよ。
宰相は妥協点を示した、という態度を取っているが、どう贔屓目に見てもただの恫喝でしかない。津の一同は文輝の答えを待っている。戴家の全てを背負って立ったことなど、生まれてこの方一度もない文輝は揺らいだ。晶矢はこの重みを常に背負っている。自らの一挙手一投足が一族郎党の命運を左右すると知って、それでもなお晶矢は凛と立っている。敵わない。文輝と晶矢は対等ですらなかったと今更知る。
文輝の唇が空を噛んだ。
喉の奥がからからに渇いて、言葉を飲み込んでしまいそうになる。
文輝の志には本当に戴家の皆を巻き込むだけの価値があるのか。自問して視線が泳ぐ。御史台の兵たちが一様に表情で語る。やめておけ。わかっている。言われなくてもここが引き時だ。わかっているのだ。
わかっているが、ここで退いて本当に後悔しないだけの自信がない。だからと言って前に進むだけの気概もない。中途半端だ。わかっている。自問自答が何度も脳裏によぎって、それでも結論が出ない。
宰相が勝ち誇った顔で文輝を侮蔑する。
結局、弱者は強者に従うしかない。その節理に抗えない悔しさに負けて視線が少しずつ下がる。文輝の視界が薄暗い石畳で覆われきってしまうより、ほんの少し早く、その声が聞こえる。
「文輝、構わん。お前の思うようにしろ」
声が聞こえた瞬間、文輝の視界がぱっと明るくなる。実際は闇夜のままだったが、一条の光が差し込んだような錯覚を感じた。声のあるじが誰か、なんて振り返らなくともわかる。これは次兄の声だ。文輝より先に振り返った宰相が、苛立たしげに次兄を詰る。
「そなた、自分が何を言っているのかわかっているのか」
「戴家というのはもとよりそのような家流にございますれば、今更言論を封殺なさろうとされることにこそ驚きを隠せませぬ」
「そなた、九品と驕っておるのであろう。私も主上も本気であるぞ」
「政権批判の一つも認められぬような国の行く末など知れましょう。私はまだこの国が生きていると思っておりますが、宰相閣下は未来になど興味がないと仰られるのでございますか? それともこの国に律令よりも重んじられるものがあるのならば、後学の為にお聞きしたいものでございますな」
国主の感情一つで律令を覆せるというのなら、それはもう専横だ。律令により人民を律してきた。その国の成り立ちを否定してまで、国主の感情を守るのであれば九品などただの顔色伺いの頭数に過ぎない。
本当に必要なものは何だ。次兄が宰相に問う。宰相は明確な答えを紡ぐことなく、玉英を詰った。
「玉英、戴家に嫁したとはいえそなたも黄家の出。戴将軍の暴挙を諫めずともよいのか」
「お言葉ですが、叔父上。叔父上の仰る通り、私は戴家に嫁した身。されば、戴家の家風に従いたく存じます」
文輝の中に思考するべき命題を植え付けていったのは玉英だ。その彼女が苦々しく微笑みながら、それでも文輝と次兄の決断を受け入れる。否定するのは簡単だ。一瞬あればいつでも出来る。玉英にとって叔父であり、宰相である碌生に抗うには勇気が必要だっただろう。位階の前では抗弁など許されていない。
それでも、玉英は彼女の志を通した。
誰の顔色も窺わず、自らの足で立って理想の為に歩く。
その道を選んだのは玉英なりの文輝への誠意だ。先を歩く大人としてのけじめだとも言える。
玉英の言葉は文輝を鼓舞したが、同時に宰相を激昂させる。
「気でも触れたか! 我々がお守りすべきあるじは――」
「俺たちが敬うべきあるじは、最初からそちらにおられる方だということは十分に理解しております。そしてそれは今も変わりありません」
この場で国主であるものは一人しかいない。景祥が「真実の証明」を成した以上、それを疑うことはもう無意味だ。
文輝が確かめたいのは政権の在処ではない。
戴家の命運を懸けて、それでもなお言葉という力を振るうことが許されるのなら、文輝は真実が明かされることを願う。
だから。
「僭越ながら、主上にお尋ねしたき儀がございます」
今、この瞬間に主上は我々の字が視えておられないとお見受けしますが、十年前までは二つの名、どちらも視えておられたのではございませんか。
内府の鎮圧を終えて、右尚書の調べを持ってきた次兄が、その問いを神妙な顔つきで聞いている。
津にはどよめきが満ちた。