「如風伝」第二部 三話

「そちらのお兄さんの素養と、あなたの素養が必要十分であればその鈴の音で全てが『正される』から、一度鳴らしてみてはどうかな?」
「俺が鳴らすのか」
「認識されていないものを媒介にしても音は響かないからね」
「言っていることがあまり理解出来ねえんだが」
「百聞は一見にしかず、と言うじゃない。まずは試してみよう」

 もしも、文輝の鈴の音が子公に届かなかったら。そのときはまた別の方策を考える。そんなことを少年が主張するので文輝は半信半疑のまま土鈴を軽く振った。りん、と鳴らすと耳朶の奥の方で甘い痺れが生まれる。この土鈴は何なのだ。どうして見えたり見えなかったりするのだ。問いたいことは山のようにある。
 ただ。
 路上で長々とする話ではないだろう。少年と赤虎が見えない子公は旅籠に戻ることを急いている。
 ならば、文輝はこの土鈴に賭けてもよいのではないか。そんな気がしたから、受け取った土鈴の紫紺の紐をすっと持ち上げる。そうして、祈りにも似た思いで土鈴を振った。りん、りん。乾いた音が街路に響いて、そうして子公の紫紺の双眸に今までとは違う輝きが満ちたのを文輝は確かに見届けた。
 快晴の夜道を照らす星々に似た輝きを灯した子公が文輝を――その傍らで止まった少年と赤虎を見つけてこれ以上ないほどの驚きを示す。柯子公というのは居丈高な態度を示してはいるが、その実とても繊細で臆病な性格をしていることを文輝は知っていた。多分、今、子公は困惑の淵で恐怖と戦っている。

「何の音だ――というか、そ、それは何だ! 神代の生きものではないか!」

 どうしてそんなものが街路に堂々と座っているのだ。
 子公の不遜は不敬ではない。相手を認め、畏敬の念を抱き、自らの中に受け入れたからこそ対等の存在として不遜に振舞う。信頼のない相手には決して隙など見せないし、弱点を晒すこともない。
 今、子公は不測と驚愕を示した。半ば恐怖の色も灯しているだろう。
 つまり。

「ようこそ、子公。忘却と失念の城郭・沢陽口へ、だそうだ」
「貴様! 何を平然と喋っている! その直刀は飾りか! 怪異を切れぬまでも、抜いて応戦の構えを見せよ!」

 狼狽し、怯え、自らの中に受け入れることを拒み、排斥する。
 凡そ人として取り得る正しい怪異への反応に文輝と少年は顔を見合わせて笑った。出会ってから未だ幾ばくも無い相手同士なのに、どうしてだかずっと昔から知っているような、そんな不思議な安堵がそこにはあった。

「なるほど、実に模範的な反応だ。少年、君はこれが望みか?」
「うん、本当にそういう反応はひと月ぶりだから新鮮に感じるよ」

 怪異は自然現象であり、天然の生きものであると同時に神性を帯びている。神性を持つ相手は神器(じんぎ)でなければ干渉をすることも叶わない。ただ、神器はその名の通り神性を帯びた器物であり、容易には手に入らないし、逆に神性を帯びていないものに対してはただの刀剣よりも格段に性能が劣った。
 文輝は右官だ。人と相対し、人を守るのが生業だから当然普通の直刀を帯びている。赤虎と闘争することなど想定の範囲外だから、この直刀を抜剣したところで何の効力も持たないが、それでも抵抗の構えを見せろ、というのが子公の言い分だろう。
 何と言うか律儀なやつだ、と思う。
 己の道に律儀で、正直で、真摯で、実直だ。この道に引っ張り込んだのは他ならない文輝自身だったが、こうも規範的な右官府の副官に育ってくれるとは思ってもみなかっただけに小さな感動すら覚える。

「子公。安心しろ。お前の信じた直感がこう言ってる。『この赤虎は俺たちに無害だ』」
「怪異の主張なぞ信じて何となる!」

 斬れなくても斬れ。そんなことを必死に主張する子公の双眸はただ恐怖に彩られている。赤虎を伴った少年は文輝と子公とを交互に見て興味深そうに笑った。

「どうする、『夕明(せきめ)』。君はどうしたい?」

 路地の上に大人しく座った赤虎の額を撫でながら、少年が言う。炎のような体毛の中、透き通った赤玉が輝いて、文輝の中でりん、と手に持っている土鈴のものとは少し違う音色が響いた。
 それと気付く暇すらなく、文輝の唇が勝手に音を紡ぐ。

「まだ『読替(よみかえ)』に囚われておられるのですか、華軍(かぐん)殿」

 文輝の自発的な意思はおそらく半分もなかったであろう。無意識的に言葉を発していた。だから、子公や少年が訝しげな顔をしてこちらを見ている理由がわからない。

「何?」
「おや?」
「うん?」

 三人揃って困惑で顔を彩っていても街路の道行きは誰も咎め立てることもなかった。ただ、ぶつからないように彼らもまた「無意識的に」文輝たちを避けていく。雑踏の中にあって誰からも認識されていないというのは恐ろしいほどの非日常だった。
 文輝の吐いた不明瞭な言葉を真っ先に読み解いたのは少年で、彼は紅い毛並みを撫でながら言った。

「『夕明』、華軍というのが君の名だったのかい?」

 「夕明」――せきめ、転じて「赤目」だ。赤虎の血涙のような眼を意味している。文輝が二十二年間親しんだ、西白国の忌むべき風習の一つであり、かつては賞罰の手段だった読替そのものだ。本来の意味を隠すために別の意を持った言葉に読み替える。
 眼前に座った赤虎の双眸が文輝の言葉を受けて数度瞬いたかと思ったら、黄金の色に変わる。
 そうして、赤虎――夕明は驚いたことに人の言葉を介した。

「久しいな、小戴」

 俺は確かに陶華軍だ。いや、陶華軍「だった」と言うべきだろう。
 そんなことを言って夕明はゆったりと腰を上げる。紅と黒の二色で塗り分けられた尾を振って、そうして夕明は間違いなく「どこか」へ移動しようとしていた。

「委哉(いさい)、それは俺の客人だ。路地で立ち話というのも風情がない。湯を貸してやれ。この季節の水遊びはまだ身体を冷やすだろうからな」
「それは異論ないのだけれど、僕は君を何と呼ぶべきかな? 夕明」
「今の俺は夕明だ。お前がそう名付けたのだろう」

 虎ながら不敵に微笑んで夕明は路地と路地の間に消えた。どこに向かうのか、と少年に問えば「自己紹介が遅れたね。僕は委哉。あなたの言うところの『読替に囚われた遺物』の一人だよ、小戴殿」と言って何の屈託もない顔で笑い、夕明の後を引き受けて文輝たちを路地裏へと誘う。
 そんな説明では何もわからない。
 ただ。

「よいのか、文輝。あれはどちらも貴様の言う怪異そのものに見受けられるが」
「正直わからん」
「貴様、あの赤虎が陶華軍とわかって話しかけたのではないのか」
「知るか。才子でもないのにそんな超能力が俺にあってたまるか」
「ではどうする。ここで引き帰しても私は構わん」

 道は二つある。紅の伝頼鳥の違和を手繰ってあの赤虎の後を追っていく道と、赤虎との巡り合わせを所詮怪異と切り捨てて通信士を探し続ける道の二つだ。もし、他の選択肢が必要であればこのまま明日、到着する右官府の部隊と合流して違和を無視するという道もあるが、その道を棄ててきたからこそ文輝たちは今ここにいる。
 だから。

「旅籠のおやじは湯を貸してくれねえだろうなぁ」
「そうだな。湯場はまだ準備中だろう」
「なら行くか。何。大したことじゃねえよ。ちょっと湯を借りに行くだけだ。な?」
「貴様がどうしてもと言うのならば私も同道してやろう」

 夏風邪を引く馬鹿には数えられたくないのでな。
 言って子公は皮肉気に笑ったが、それが彼の精一杯の強がりだろうことは疑うまでもない。子公は横柄な態度を取ってはいるが文輝など及びもつかないほどの現実的な実利主義者だ。不確定要素を詰め込んだ現状に困惑していない道理などないし、多分、彼の中では赤虎の招きに応じるのは文字通り命運を賭けての大決心に他ならない。部隊を離れての単独行動。伝承の類だと思っていた怪異との遭遇。そして、理解を越えた文輝の直感が生み出していく先の見えない不安。
 それでも。
 子公は文輝に賭けてもいい、と言った。
 それはつまり、信だ。文輝と子公の二年は信を生み出すのに十分だったことを、今、子公が示す。

「子公。お前だってもう今更何もなかった顔で岐崔に戻れる、だなんて思ってもいねえだろ」
「思うだけなら自由だろう。まぁ、思ってもいないが」

 行くのだろう。言って子公がどこか吹っ切れたような顔をした。こういう顔をしているときの子公は実に頼りになる。この路地裏の向こうで待っているものと向き合わないことには文輝たちの任務が始まらない。そんな予感を抱きながら、文輝は路地を曲がった。
 喧騒は続く。ずぶ濡れの文輝たちの立っていた場所に小さな水たまりが出来ていたのだが、雑踏はそれすらも気付かないで素通りしていく。
 忘却と失念の城郭と呼ばれるだけの理由が待っていることだけを望んだ文輝の存在もまた城郭から忘却されるのだった。