「如風伝」第二部 四話

「死に戻りの小戴殿。他国の生まれである子公殿。あなたたちは僕たち程ではないけれど、理から外れているようにお見受けする」
「貴様の言う『理』というのは白帝の庇護を受けているということと同義ということか」
「その説明をしていたら夜が明けてしまうよ。どうなのかな? 小戴殿、出来ればあなたに文を書いていただきたいのだけれど」

 本筋に触れつつも詳細は語らない。自らの主張に必要な説明はするが、脱線も許さない。
 子公と同程度、もしくは委哉の方が幾ばくか上手の印象を受けた。
 紫水晶が鋭く文輝を射る。安請け合いはするな、と言外にあったが事態は急を要している。文輝の判断が必要なことは自明で、その責を負うのであれば他の誰にも委ねることは出来ないだろう。

「子公、お前どう思う」
「委哉の言を頭から呑むことは出来ないだろう。だが、ある程度の確証はあると見た。それをいつ明かすのか、というのがそれの気分次第だというのが一番気に入らんが、感情論に振り回されている猶予もないのもまた明白。ゆえに結論は『いいだろう』だ」

 それの主張を酌もう。子公はそう判断した。つまり。

「委哉、深紅の料紙と白墨の用意を頼みたい」
「あなたたちならそう言ってくれると思っていたよ」

 少し待っていてくれるかな。すぐにでもこちらに用意しよう。
 大別すれば笑みとしか呼びようのない、それでも何重にも裏がある表情を浮かべて委哉が個室を出ていく。室の中に残った夕明がむくりと首をもたげて、そうして低く「小戴」と呼んだのは委哉の離席から一呼吸した後のことだった。

「か――じゃない、夕明殿。どうかしたのですか」

 かつて陶華軍だったもの。今の名は夕明だ。わかっている。わかっていても、記憶の中の声とさほど違わない彼の声を聞いていると唇が無意識的に華軍の名を紡ぐ。違う。華軍はあの夜、命を終えた。わかっている。わかっているのに文輝の感傷が時間をあの夜で留めようとしている。無益だ。何の実利もない。それでも、文輝にとって目の前にあるものはどれほど姿かたちが違おうとも華軍でしかないのを強制的に自覚させられた。
 華軍、と呼ばれそうになった赤虎が委哉の笑みよりも比べ難いほどの慈しみを伴って微笑む。

「小戴、無理に夕明と呼ぶ必要はない。お前が呼び易いのであれば、名などどうでもいい。華軍と称したいのであればそうしろ」
「いいのですか?」
「その代償をお前はもう支払っているからな」
「委哉が俺を『小戴』と呼ぶ、ですか」
「委哉だけではない。俺もお前をそう呼称しよう。それが嫌でなければお前も俺のことを華軍と呼べばいい」

 人の感情という御し難いものを無理に御そうとするからこそ蟠りが生まれる。
 文輝ももう少し肩の力を抜け、と夕明――改めかつて華軍だったものは鷹揚に笑った。

「小戴。あれはあれでよかれと思ってやっていることだ。ただ、害になるのであれば切り捨てろ。武官というのはそういう存在でなければならん」
「害にならなければ?」
「お前の御せる範囲で利用しろ。俺も。お前の副官も、委哉も。何の線を引く必要もない。お前はお前の善を貫け」

 怪異だから、だとか、人間だから、だとかそんなことは大局の前では些事だ。武官とは万民の鉾でなければならない。最良を選ぶ為に心を殺すのが悪か善か。そうして成した自己犠牲の果てに世界は何を享受するのか。考え、悩み、それでも瞬きの間にその答えを生み出し選ぶ。それが出来ないのなら、将軍位など望んでも重たいだけだ。
 だから。

「小戴。どのようなかたちであれ、俺は再びお前と見えたことを幸運に思っている」

 あの夜の詫びを告げる予定はない、と華軍は言う。それでいい、と文輝は思った。あの夜にあったことを今更否定されても文輝の心痛が増えるばかりで、だのに謝罪は許容を強要する。許さなくてもいい、と華軍に告げられたことで四年間の凝りが少し薄れたように思った。
 そんな文輝を子公は溜息で評価する。馴れ合うな、と言っているのだとすぐに理解出来たが、文輝にとって人と人との間に生まれた交流は決して無価値ではなく、子公のように実利で態度を変えることは出来ない。そして、そんな文輝のことを呆れながらではあるが、子公も受け入れていると知っている。
 室の中の空気がほんの少し和らいだ。
 その頃合いを見計らったように委哉の声が聞こえる。

「小戴殿。夕明と仲良くしてもらえるのはいいのだけれど、今、あなたは僕のお客なのだから僕のことも忘れずにいてもらわないとね」
「委哉、戻ったのか」
「さて、小戴殿。あなたの上官たちを納得させる名文は思いついたかな? 子公殿の力を借りてもいい。とにかく、今日中に派兵の延期を決定していただこう」

 僕たちには時間がない。そう言う委哉だったが表情は決して暗くない。それが逆に文輝を奮起させた。正体もわからない。本当に自分と同じ未来を望んでいるのかもわからない。それでも、委哉は今、確かに文輝のことを信頼しようとしている。
 人の信に応えるのが怖い、だなんて言わないで済むぐらいには文輝にも九品(きゅうほん)としての矜持がある。西白国で公用語として用いられているのは複雑な成り立ちを持つ言語だが、その由来として最も多いのは表意文字だ。意味ある文字と意味ある文字を組み合わせて別の概念を表す。
 だから、文輝は知っている。
 「人」が思いを「言う」とき、それは相手を「信じた」ことに他ならない。
 信じられたのなら、その期待に応えるのが文輝の思う善だ。それをまず、自らが実践してこそ、次の信を得られる。文輝が今ここにいるのは称賛がほしいからではない。西白国で暮らす人々の生活を守る武官を志したからだ。諍いがあれば矢面に立ち、天災があれば助ける。そういう存在であることに誇りを感じていた。
 ならば、文輝のすべきことなどそう多くない。

「誰が鳥を飛ばせるんだ?」
「それはもう。あなたの目の前にいる赤虎が」

 華軍は何を引き継いだまま赤虎となったのか。その答えも未だ判然としない。それでも一つだけ確かなことがある。文輝は今、底の見えない「何か」に巻き込まれようとしている。
 岐崔動乱のあの日と同じように、昨日と地続きの今日が突然に牙を剥く。本当は突然でも何でもなくて、昨日と地続きの一昨日や、もっと前から起きている事象の因果が今日に結ばれ始めただけで不思議なことなんて一つもないのかもしれない。
 時を告げる鐘の音が湯屋の二階にも鳴り響く。数え間違いでなければ、間もなく夕刻と相成るが、区画自体が怪異であると説明された通り、沢陽口の城郭の一部ではないのだろう。この区画には日没という概念がないようだ。
 溜息を吐いた子公が文の草案をすらすらと暗唱し始めるのを頼もしく思いながら、文輝は上官に宛てた依頼を白墨で書き綴る。
 どうか文輝の取り過ごしであればいい。
 その願いが次の瞬間に霧散するとわかっていたとしても。文輝は文輝であるがゆえに願ってしまうのだということを文輝はまだ認知していない。

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