「如風伝」第二部 十一話

 史書の中に記録があるかどうかの保証はない。それでも、二十四白(にじゅうしはく)が重ねてきた歴史を考えれば史書から当たるのが最も早いだろうと踏んだ。その理由までもを一拍で理解した子公が溜息を漏らす。白喜が誰でいつ二十四白となったのか。それを理解しなければ「信天翁」の要求は満たせない。彼女の要求が満たせなければ白喜は決して本来の役割に戻ることもない。
 「信天翁」が何をしたいのか、は未だ文輝の中でも甚だ不明のままだ。
 それでも。多雨の怪異を自分の目で見てから既に五日が経過している。
 上官に渡航の延期を申し入れるにしても見通しが必要だ。まだ何も解決していない。何の手掛かりもない。その状態で更に渡航を遅らせてほしいと要望したところで具体的な時期は示すことが出来ない。それを上官が良しとするのか。そんな闇雲な判断を下すものが部隊を指揮することは出来ない。勿論、否が返ってくるだろう。
 文輝たちに残されているのは多くても十日。
 その間に事態を解決出来なければ岐崔(ぎさい)から工部(こうぶ)と兵部(ひょうぶ)の本隊が渡河してくる。そして彼らは忘却と失念に取り込まれてそうして本来の目的を悠久に忘れてしまう。忘れているうちにこの城郭は土砂に埋め尽くされる。
 だから、急がなければならない。
 そんなことを言っていると怪異の区画まで戻ってきていたらしい。境界線を越えた瞬間、ふ、と世界が明るくなる。
 この奇怪な出来ごとを日常のように感じ始めている自分に文輝は焦りを覚えた。
 陽光の中、子公の紫紺が厳しい輝きで文輝を射る。
 そこには彼の戸惑いがあった。

「貴様、わかっているのか。この城郭の書庫は鍵がかかっていて司書以外は入れん」

 知っている。どこの書庫もそうだ。沢陽口だけではない。岐崔の中城(ちゅうじょう)の書庫も漏れなく施錠されている。この国において公文書というのは厳重に保管されるという取り決めがあるからだ。
 鍵を持っているのは史書か、その書庫を管轄する府庁の長だけだ。つまり、沢陽口の城郭においては司書か県令――沢陽口は県ではなく中嶺県(ちゅうれいけん)の一都市にすぎないが城郭の重要性から県と同様に取り扱われた――がその鍵を保有している。司書は府庁の左府。県令は府庁の最奥の執務室にいる。どちらの鍵も厳重に保管されているだろう。
 当然、文輝もそのことを認知している。
 ただ。

「子公。お前の方こそわかってるか? 俺たちは今、この城郭の誰にも認知されてねえんだ」
「ははっ、貴様。よく言えたものだな。『鍵を盗め』と?」
「違う。借りるんだ」
「詭弁だな。同じことだろう」
「いや、違う。俺たちは明日の為に鍵を借りて返す。誰も気付かねえのなら、誰も罪を認知しない。誰も罰せられないし裁く必要もない」

 私腹の為に奪うのではない。正当な目的があり、城郭を――民を守る為に必要な行為だ。借りる、と言って何の差支えがあるだろう。勿論、心の底から罪悪を感じていないわけではない。当然、後ろめたさはある。それでも。白喜を見つけ、本来の役割を全うさせる為には知らなければならない。沢陽口の城郭のものが「敬わなかった」何かと、そうすることを「信天翁」が求めた理由を知らなければ白喜を連れ戻すことは不可能なのだということだけがわかっていた。

「私は貴様ほど手癖が悪くない。どこかでことは露見するだろう」

 不可能を知らないと豪語した子公が不可能を暗示する。彼のそれは倫理観から来る不可能だったが、文輝が自ら手を汚す役割を代わってやれるわけではない。無責任に命ずることは可能だが、文輝は説得を選ぶ。
 日の射す街路を歩いて、通い慣れた湯屋の板戸をくぐる。二階の個室に入って、嘴の店員から米茶を受け取って、押し問答の続きをしよう。そう思っていたのに文輝の望みは別の声で叶えられるという。

「ならばそれは俺が請け負ってやろう。手癖の悪さではお前たちとは比べ物にならないほどだからな」

 赤虎の姿に戻った華軍がすらりと卓の下に潜り込む。そうして、くわ、と大きな口を開けたかと思ったら文輝の要求を呑む、と言った。
 それに前後して委哉(いさい)と白瑛(びゃくえい)が室に入ってくる。どうやら華軍は文輝たちの戻りを伝頼鳥(てんらいちょう)で先に伝えておいたようだった。

「華軍殿。よいのですか」
「赤虎を裁く律令がこの国にないことは俺もよく承知している。もとより、陶の姓を受けた俺が窃盗の罪に問われたところで悲しむものなどおりはすまい」

 万一、そうなっても華軍の身の安全は自分が保証する、と少年が言う。

「仕方がないよ、小戴(しょうたい)殿。天女殿が話してくれればそれで済むことを彼女はどうしても話したくない、というのだからね」
「話したくないのではありません。わたくしには話す権限がないのだ、と何度説明したらご理解いただけるのでしょうか」

 怪異と天仙の意味があるようで何の意味もない言葉遊びに付き合っている時間はない。
 文輝はこの後万全の態勢で「信天翁」の言った「もう出会っている白喜」を探すという使命と向き合う必要がある。

「白瑛殿。白喜についての推論をあなたにぶつけたところで回答はいただけないのだろう」
「あなた方、人間が選ぶ道をわたくしたちは見届けなければならないのです」
「華軍殿の助力を請うのはまだ許容範囲内なのか」
「怪異の成すことに干渉する権利もまたございません。お好きになさっていただいて結構です」