「如風伝」第二部 十一話

 ならば話を進めるしかない。
 華軍がどうにかして書庫の鍵を持ってくる。書庫を開ける。史書を探す。その中で白喜について言及しているものをひたすら読み進める。
 明日の朝、この区画を出ればおそらく文輝と子公たちは別離する。子公たちは文輝を認識出来なくなるだろう。だから、助言が出来るのは今夜のうちだけでこの機を逃し、手順を誤れば文輝と子公は二度とお互いと出会うことはない。文輝たちが合流するのは問題が解決するときだけだ。

「白喜が何ものか。どうして白喜が任を放棄したのか。それをお前に調べてほしい」
「調べてどうする。結果を貴様が聞くことは出来るのか」
「それを、調べた結果から判断してほしい」
「貴様――判断は、私のあるじたる貴様の仕事だとわかっているのか」
「その権利をお前に一時的に貸し与える、って言ってるんだ」
「貴様はその間、遊び歩くだけか。随分といいご身分だな」
「子公――」
「わかっておるわ、この馬鹿もの。白喜の意識を貴様が引き付ける、とでも言うのだろう。怨嗟の的になる、とでも言うのだろう」

 そうだ。その通りだ。その役割を演じるものがどうしても必要だ。
 そして、子公にその任を命じることは出来ない。
 だから結論は最初から出ているのだ。文輝は子公に賭けるしかない。子公の脳漿が全てを打開する策を見出すまで、文輝はときを稼ぐことしか出来ない。
 それでも文輝は信じている。子公ならきっと答えを見つけてくれるだろう。
 一方通行の信頼関係ではない。そう確信していたから、文輝は子公に思いを託した。
 文輝の榛色に子公の紫紺が映る。一瞬だけ、その白い瞼が降りて再び開いたときには彼の中にも覚悟が宿っていた。

「――七日だ」
「うん?」
「七日で決着が付かなければ私は岐崔に鳥を飛ばす。『我々では解決出来なかった』――と」

 いいな。反論の余地のない決定事項の通告に文輝もまた束の間瞼を閉じて考えた。
 子公は誇り高い副官だ。あるじである文輝の為の献策をするのは本分だから迷いはない。どれだけ不本意でもあるじの命は遂行する。たとえそれが文輝を危険に晒す行為だとしても、だ。
 不本意だと子公が感じている。それを承知のうえで文輝は命じた。それが子公を傷付けたとしても、文輝を危険に晒しても、武官たる文輝にはこの両腕で戦うという選択肢以外はない。
 だから。

「それでいい。頼んだ」

 七日間というのは実に絶妙な期間配分だと文輝は感じた。文輝の体力、精神力。子公が推論を確定事項に変えるのに必要な時間。そして沢陽口の城郭にかかる負担。それらを統合的に考えるに七日というのは妥当な設定だろう。
 それでいい。もう一言、確かめるように深く頷く。子公の紫紺が泣きそうな色をしていたのに気付かなかった振りをして、文輝は湯屋の個室を出る。
 それを追うように赤虎が出ててきて、文輝と共に湯屋の階段を下りた。文輝に割り当てられた旅籠の部屋に入って軍靴を脱いで寝台に座る。「小戴」と呼ぶ声がして、文輝は視線を下げた。

「小戴、お前は怖じているときはそういう顔をしろ」
「怖じているように見えるのですか」
「――そうだ」
「華軍殿。俺はいつだって怖いですよ」

 武芸の鍛錬はいつでも痛いし、相手の敵意と対峙すれば怖い。傷付くのも嫌だし、傷付けるのも勿論怖い。あの日。あの夜。文輝の両手は鮮血を浴びた。それ以来、文輝はいつでも恐怖と戦っている。戦うことそのものが怖い。人と別離するのも怖い。失望の眼差しを浴びるのも怖い。何もかもが怖くて、少しでも気を抜けば発狂してしまいそうなほどだ。
 安寧の人生と別離したのだ、と修科で学びながら文輝は理解した。
 人を殺したり殺されたりする人生を歩んでいる学生は文輝の他にはいなかった。どの学生も皆、ただの鍛錬の延長で技巧を競っているだけで本当に命を懸けたものなど皆無だ。そんな中で文輝は浮いた存在だった。九品の直系で外関(がいかん)で修科を受ける、だなんていうのは前代未聞だ。九品の恥晒し。そう言われても、あの夜に文輝を覆った恐怖以上のものは感じなかった。
 武官とは人を殺めてでも国を守るものだ。
 武官であるということの本来の意味を華軍は文輝に直接的に教えて消えた。
 その華軍が問う。怖じているのか、だなんて最悪の中でも更に最悪な部類の質問だ。

「華軍殿。人は死ねば再び出会うことはありません」
「俺とお前は巡り会っただろう」
「そうですね。それでも、こんな巡り合わせは初めてです」

 巡り合わせが何なのか、誰の意思なのか。それが何一つ判明しなくても文輝はもうその現実と巡り会ってしまった。現実を変えることは出来ない。現実を否定しても、感傷以外に得られるものなど何もないのだから。
 人は死ねば巡る。二度とその人間に生まれることは出来ないし、生き返ることもない。
 だから、あの朝。文輝が目を覚ましたことを誰もが喜んだ。文輝の中では一度落とした命だ。惜しい、という感覚が薄らいだと強がったが、実際はその反対だ。死の淵に立った。あの無常なる暗闇を二度と見たいと思わない。だから文輝は臆病になった。死ぬということの恐ろしさを人並みに味わったとも言える。
 そんな文輝を赤虎の琥珀色の瞳がじっと見上げていた。