「如風伝」第二部 十五話

 弱さを持たないものなどどこにもいない。
 強さを追い求めて、それ以外の全てを犠牲にすれば、それはどこかの時点で別の弱さへと変わるだろう。そういう弱さが全くない、完璧な存在などどこにもない。神ですら万能ではないこの国でどうして一介の仙道や人間が完璧でいられるだろうか。
 強いものにぶら下がるというのは醜悪な行為かもしれない。
 それでも。
 本当の強さを得るために、誰かの助力を得ると言い換えればそれは美談の始まりになる。
 美談になるのか、ならないのかも、やってみなければわからない。
 失敗をしたのならそのときに反省をすればそれで終わりだ。
 取り返しのつかないこともあるかもしれない。それすら結果論で、始める前にどうこう出来ることではないのだから、まずは始めてみるしかない。
 
「でも」
「本人がいいって言ってんだから、ぼろ布になるぐらいまで使い倒せよ。俺は、お前に使われたぐらいで擦り切れるやつに見えてるのかよ」

 慈善を行いたいのではない。
 被虐を望んでいるのでもない。
 尊い犠牲となりたいのでもなければ、誰かに隷属したいのでもない。
 ただ。
 隣人としてこの世の中で生きていたいだけだ。
 世界の一隅として、在りたいだけだ。
 その為に、自らが出来ることを成したい。人の手を取って、前に進む為の支えとなれるのなら、それは願ってもいない僥倖の一つだろう。
 ふわりと微笑んだ文輝の視界で至蘭が大粒の涙を零す。瞼を閉じることすら忘れて天仙はむせび泣いていた。何千年もの長い時間を過ごしてきて、初めて人の温もりを知った至蘭が慟哭する。

「――いいの?」
「ああ」
「――本当に、いいの?」
「俺は誰かの役に立てるならそれでいい」
「本っ当に、首夏って馬鹿だね」

 でも、わたしは好きだよ。両頬に幾筋もの涙を零しながら、至蘭が破顔した。泣き笑いのままで至蘭が文輝の傍らへとやって来る。文輝や子公たちと違って、多雨に晒されていない彼女は妙に温かくて、そうして爽やかに乾いていた。
 小さな手のひらが文輝の頬に触れる。その頬を左右に大きく引っ張って「首夏、痛い?」と尋ねてきた。神仙も夢か幻という概念を除外するときには痛覚を利用するのだな、と思って同時にそういうのは自分の身体でやれ、と思った。

「ひらん、ひてえんだが」
「首夏。何言ってるかよくわかんない」
「ひてえから、とひあえふはなへ」
「首夏。面白いね。面白いね」

 痛いのは文輝の頬の方なのに、至蘭が嗚咽するのを見ていると彼女の心が負った傷の深さを改めて知るようだ。他人の痛みを代わってやることは出来ない。神でも仙道でも、それは決して不可能の行為で、だからこそ人は想像をする。思いやることでしか、人は人に寄り添えない。全てを間違いなく共有していなくても、共に生きていくことを強いられる。
 だから。
 まだ動きのぎこちない両手で至蘭の手の甲を覆う。指を一本ずつ頬から剥がして、ようやく自由になったその口で文輝は言った。

「至蘭。信梨殿のとこへ行こうぜ。大丈夫だ。子公も華軍殿もいる。絶対に、お前一人で背負わせねえ」
「そうだね。わたし、信梨とちゃんと話したことなかったなぁ」

 両手を文輝に捕まれた天仙は、もう涙していなかった。永遠の刹那を愛しみ、文輝と共に逃げ込んだ夏と秋の中にいるように穏やかな顔をして至蘭が文輝の呼びかけに応じる。
 他人と言うのは意外ときちんと向き合ってみると違う顔を持っていたりする。
 言語という機能を与えられたのだから、まずは対話をするのも有効だ。そんなことを考えていると部屋の外から「おや、もう起きたのかね」と聞き覚えのある声がした。

「『信天翁(あほうどり)』殿――?」

 部屋と部屋を仕切る暖簾の向こうから「信天翁」が姿を表す。その両手にはそれぞれ盆が載っていて、盆の上には湯気の立ち昇る食器が四つ並んでいた。
 以前、強硬的に立ち入った部屋ではなかったが、何とはなしに既視感を覚える。壁に沿ってうず高く積まれた書物も、きちんと畳んで種類別に置いてあるだろう衣服も、部屋のあるじの性質を物語っていた。
 その段になって、文輝が横たわっていたのがそれなりに豪奢な造りの寝台であることに気付く。
 腰から下に掛けられている布も細かな刺繍の施された上等な品だった。
 「信天翁」が入室して、座卓の上に二つの盆を置く。「坊、あるじが目覚めたならぬしも身なりを整えんか」と言いながら「信天翁」は文輝に湯気が立ち上る椀を差し出す。

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