Fragment of a Star * 05:天乙女

 潮の匂いがした。生臭さはそれほど感じず、不快感も伴わない。晴れた日の浜辺、とサイラス・ソールズベリ=セイは形容しようとして自らが一度も海を見たことがないことを思い出した。文献の向こう。魔術によって記録された大いなる海の香りしかサイラスは知らない。
 その、記録の中の匂いと酷似したものを鼻腔の奥に感じる。
 雨が降り始める頃の匂いかと最初は思ったが、どう考えても潮の匂いとしか判じられなかった。その匂いが少しずつ濃くなる。ここにスティーヴ・リーンがいたならば何の匂いなのか解説してくれただろうが、今、彼女とは別行動をしている。この馬車街の中で再び相まみえる刻限にはまだ少し時間があった。
 荷物を抱え、宿屋に戻る街路の上の賑わいがサイラスの感覚上で少しずつ変容している。おかしい、と防衛本能が警鐘を鳴らすのを感知したサイラスは荷物を一旦置いた。後ろを歩いていたフィリップ・リストを振り返ると怪訝そうな顔をしている。鷹の魔獣ともあろう彼はこの変異を感じていないのだろうか。そんな馬鹿げたことを考えて、すぐに打ち消す。

「フィル。『何が来ている』?」
「さてね。僕や君には特に害意もないと思うけれど?」

 無視していい、と鷹の魔獣は切って捨てる。だが、どう考えてもこれは変異だ。ヒトとは違う性質の圧倒的に上質な魔力の波動だとも言える。潮の匂いのする異能者は文献の中だけでも数多存在するが、資料上でしかその匂いを知らないサイラスに正体の見当がつく筈もない。
 咄嗟の判断でカフスボタンの片方を引き抜いた。琥珀色をした輝きに意識を向けて口腔内で長詠唱を開始する。いざというときの為に持ち歩いている青色の輝石——一般的な触媒では対応しきれないとサイラスの脳漿が計算した。このカフスは学術都市・ソラネンで初めて「S(スター)」を授与されたときに魔術師ギルドの老翁がくれたもので、彼が言うには古獣の牙らしいのだが安全平和なソラネンでは無用の長物そのものだった。
 その、思い出の品を使うのに躊躇させないぐらい、馬車街の南側上空から飛来する魔力は高濃度で大きい。サイラスの長詠唱に呼応して半球状の障壁が少しずつ形成される。下から順に煉瓦を積み重ねるようにして障壁を形成するのは、ソラネンの都市で魔獣と攻防戦を繰り広げたときに使った魔術よりも高度な技術と緻密な集中力、それからより多量の魔力を必要とした。それでも、労力に見合うだけの防御力が担保されている。積み上がっていく防壁を確かに感じながら、サイラスは南の空に意識を向け続けた。飛翔体は今もなお接近している。
 間に合うだろうか。不意に不安が胸をよぎった。その負の感情を抑え込んでサイラスは口腔内で最後の詠唱を完了する。
 天空を覆う薄黄色の幕を視認出来るものはこの馬車街にあってそう多くはないだろう。危機を感じているものも殆どいない。無用な混乱を助長するのはサイラスにとっても本意ではなかったから、魔術に疎いこの馬車街の構造は寧ろ好都合だったとすら言える。
 ヒトビトの営みとは隔絶した世界で外敵の処理を終える。
 相も変わらず自己犠牲を肯定する言動に隣で傍観を決め込んだフィリップが苦笑を堪えきれないようだった。

「トライスター。君は本当に無理難題を背負い込むのが趣味なのだね」
「無理難題かどうかは実行してみねばわからんだろう」
「僕は君のように言葉遊びが好きではないから、先に言うけれど、君がしていることは全くの無意味だよ。なぜなら──」

 フィリップの高説が話を結ぶより早く、鈍い頭痛がサイラスを襲う。物理的な衝撃はないが、視界が歪む。魔術障壁を外部から破壊しようとしているものがいる、という事実と、その魔力の波長が飛来していたものと一致するという事実とを弾き出してサイラスは隣で悠然と佇む聖職者を睨んだ。

「我々には害意もないのではなかったのか、フィル」
「仕方がないよ。君が積極的に『彼女』の到来を拒んだんだ。あのまま放っておけば無害だったものを有害に変えたのは他ならない君自身だ、トライスター」

 でもまぁ僕もあるじを見殺しにするのは本意ではないから仲裁ぐらいはしてあげようじゃないか。
 言うなりフィリップは鷹の姿に変じ、上空高く舞い上がる。サイラスにだけ聞こえる言葉で彼が飛来物の名を呼んだとき、眩暈を覚えた。

「久しいね、フォノボルン。今日も君はとても美しい」
「あらあら。そういうあなた様こそお久さしゅうございますわ、樫の君」
「美しい君にこんな場所で会えるなんて光栄だね。もっと穏便に話をしようじゃないか」
「樫の君。わたくしはとある方にお会いする為にやって参りましたの。穏便に、と仰るのであればこの天幕が邪魔ですわ。交渉というのはお互いが譲り合うのが基本ではございませんこと?」
「ではまず、君の胸の高鳴りを抑えてはくれないか? そうすれば僕の心配性のあるじもきっと天幕を解いてくれるはずさ」
「まぁ、あるじ! 樫の君。あなた様は本当にヒトがお好きでいらっしゃいますのね。以前紹介いただいた方ではないのでしょう? 是非わたくしもお目通りを。今度はどのような方でいらっしゃるの?」

 薄黄色の天幕を隔ててなお鮮やかな色彩を放つその蒼は文献の向こうに見た天乙女そのものだった。いや、そうではない。実物の方がずっと鮮烈で美麗であり、畏怖すら感じさせる。