Fragment of a Star * 05:天乙女

 天乙女——フォノボルン・シーヴェイツと言う名のハルヴェルの女妖がなぜここにいるのか。そもそも神というのは概念上の存在であり、シジェド建国より残されている史書を遡ってもいずれかの神が顕現した姿を見た、という記載はまだ一つもない筈だ。
 ソラネンの聖堂でサイラスは神が起こす奇跡を体感した。今更、神の存在証明について議論を成さねばならないほどには、超自然的存在のことを疑う気持ちは強くない。神は存在するのであろう、が今のサイラスの見解で、但しそう易々と関われるほどには低次の存在でもない、辺りで持論を結べれば上等だ。
 その筈だったのに、現実はサイラスの学術的論拠を次から次へと粉砕していく。

「フォノボルン。彼が今の僕たちのあるじ、サイラスだ。中々に『いい色』をしているだろう?」
「まぁ! まぁ、まぁ! なんて美しい『色』をお持ちでいらっしゃるの?」

 「月光の君(ドゥ・モーント)」とお呼びしてもよろしゅうございますか。
 シジェド王国においては王国共通語が存在し、国内では通常共通語が用いられる。
 フォノボルンが発しているのはれっきとした王国共通語に聞こえていたが、「月光の君」の発音を聞いてサイラスはその考えを改める。「月光の君」をドゥ・モーントと発音する言葉は現代にはなく、神話の中に細々と残っている古語に分類された。古代魔術の研究の過程で、サイラスが古語を学んでいなかったら恐らくは「シ・キアロルーナ」と聞こえたと推測される。つまり。フォノボルンの発した言葉は彼女の意図した意味に最も近い言語に自動的に翻訳されているのだろう。神の系譜に名を連ねるだけあり、ヒトの常識を軽々と超越するフォノボルンに気付けばサイラスは毒気を抜かれていた。

「『月光の君』というのは些か気恥ずかしいが、あなたがそう呼びたいのならそうされるといい」

 色彩の話をしているのに白銀を褒めそやされるのにはどこか疑問を感じたが、残念なことにこの世界に住まうもののうち自らの魔力の色を自ら視認出来る存在は神の次元にまで広げても皆無だった。
 自分の姿を見ることが出来ないのはときを経ても変わらない、摂理なのだろう。
 月光の君と称されることを受け入れ、上空に浮遊する大いなる蒼の女神を見上げた。豊かな長髪は濃紺から空色へと色調の変化を見せながら揺れている。天乙女は海乙女とも記されるのだが、肩甲骨から伸びた双翼は鳥類の、下肢は海生生物によく見る尾びれと鱗が魚類のなりをしていた。
 上空に浮遊しているのに圧倒的な存在感を放っているのは、その物量の大きさゆえだろう。旋回を続けるフィリップも決して小さいわけではないのに光点としか判じられなかった。
 天を覆う女神がサイラスの承諾を受けてそっと微笑む。

「では『月光の君』。あなた様にお願いがございますの」
「ああ。この障壁を解けというのだろう?」
「わたくしはただ、とある方にお会いしたいだけ。ヒトビトの生活を乱そうとは思ってもございません。白銀のあなた様にもそれはご理解いただけますでしょう?」
「天乙女であるあなたにまつわる逸話は数多ある。ただ。あなたがそうまでして面会を希望する、ということはヒトの世の英雄——ラルランディア・ル・ラーガそのヒトであるとしか思ないのだが?」

 そもそもだ。この女神がヒトの世界において認知され続けているのはその始まりの神話に由来している。
 天乙女であるフォノボルンと恋をしたヒトの世の英雄——ラルランディア・ル・ラーガを失ってから、フォノボルンは泣き暮らした。天乙女——海乙女——そして雨乙女。様々な表記でフォノボルンは神話の中に登場する。そのどれもがラルランディア・ル・ラーガの存在に触れており、フォノボルンにとっては父神・デューリよりもラルランディアの方がずっと大切な存在であることを暗示していた。
 だから。
 彼女が胸をときめかせ、会いたいと切望するのならそれはラルランディア・ル・ラーガ以外にはあり得ないのだ。

「『月光の君』は本当にお話の早い方ですのね。そうでございます。ラルランディア様がこの近くにおられるはず。今世に生まれ落ちたあの方に再び相まみえ言葉を交わしたいというわたくしの願いをどうか叶えてはいただけませんこと?」
「文献によればラルランディア・ル・ラーガは一切の魔力を持たないとされる。ただビトにも見える出力であなたが顕現するとそれだけでヒトの世は混乱するのだが、まぁ、そうだな。あなたの中の永遠を止める権利は我々にはない。別の術式を展開しよう。その間、少しだけでいい。胸の高鳴りを抑えてそこに留まってはくれないか、蒼の貴婦人」
「はい! はい! それはもう! ラルランディア様にお会い出来るのでしたらヒトの世界の少しの時間などわたくしには瞬き一つにも過ぎませんわ!」

 紺碧が双眸の縁を彩っている。その、一見冷徹にも見えかねない化粧を纏ってフォノボルンは歓喜した。
 そして、彼女はサイラスの提案を受諾して、少しずつ小さな姿に変貌していく。尾びれから淡い色のスカートへと変化していくのを視界の端に捉えながら、サイラスは懐に仕舞っていた青色の輝石を取り出した。

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