Fragment of a Star * 05:天乙女

 サイラスは決して近視眼的な性質ではないが、ものごとに集中すると周囲のことを感知しなくなる。
 学術都市・ソラネンではそんなサイラスのことを寄宿舎の女将であるテレジアがフォローしてくれたからどうにか人生が成り立っているのだ、とこの旅に出てからもう何度痛感したか、両手の指では到底数えきれない。
 テレジアは彼女以外の魔獣を知らない。知らないからこそ、サイラスと二人三脚で色々なことを経験してきた。失敗をするのも、学びを得るのもいつも二人で駆け抜けてきた。だから、母親の似姿からはとても想像つかないような豪放磊落な女傑に育った盟友を見ていると、文献を読んだぐらいで魔獣のことを理解するのは不可能だと何度でも自覚するしかない。
 サイラスは学問については天才だが、ヒトとしては不足があまりある。
 よく、ソラネンの王立学院では「寝食を忘れるほど没頭する」という表現が使われる。学者の素養としては必要な条件だが、その状態で生き続けることはあまりにも難しい。だからこそ、ソラネンの都市では寄宿舎街と呼ばれる区画で学者や学生たちのフォローをする女将や宿守が幾人も存在した。
 学者として生きる為に最大限配慮してくれる都市のことを思い出しながら、鷹の魔獣を振り返ると彼もサイラスも似たような表情で苦渋している。
 サイラスと多重契約をすることになった魔獣たちはそれぞれに個性があった。
 常識の権化である女鹿の魔獣——スティーヴはヒトの世で生きるということをよくよく把握している。そうでなければ旅の楽器奏者などという生業が務まるわけがなかった、というのもあるだろうし、ヒトという生きものの営みのことを好いているのだろう。
 聖職者の体をした風来坊よりよほどヒトのことをよく見ている。
 だからだろう。この旅が始まってからというもの、食事はウィリアム・ハーディかスティーヴの仕切りということになっていた。その両者と別行動している今、スティーヴの任はフィリップが継承したも同然だ。あの気高くも優しい女鹿の魔獣は、フィリップというものがありながら、食事を抜かしたと知ればきっと酷く怒るだろう。
 彼女と争論になってもいい、と思わないぐらいにはフィリップもスティーヴのことを尊重している。
 緋色の双眸に宿った憂いをサイラスもまた視認して溜め息を漏らした。

「——そのようだな」
「駄目だ。フォノボルン、君の恋人に会う前にトライスターに食事をさせないと僕がスティに叱られてしまうよ」

 陽はまだ昇っている途中だ。フラップ屋が悉く売り切れになるには今しばらく猶予があるだろう。街の中央方向へ戻ろう、とフィリップが言外に提案したのを聞き届けたハルヴェルの女妖はぱっと表情を輝かせる。
 フィリップの憂いの正体を彼女は微塵も理解していないようだった。

「まぁ! 藤の君もいらっしゃるの? 樫の君、わたくし、藤の君にもお会いしとうございますわ!」
「だから。スティに合流する前にフラップを買っていないと僕が叱られてしまうんだ」
「藤の君はなかなかハルヴェルにはいらっしゃってくださらないのですもの。ここでまたすれ違ってはわたくし、藤の君とお会いしそびれてしまいますわ。樫の君、藤の君は今どちらに?」

 サイラスの施した防衛魔術の被膜があってはスティーヴの居場所も見つけられない。何という精度の魔術だ、と感嘆しながらも、フォノボルンの耳にフィリップの憂慮は映らない。
 その代わり、ではないのだが、常に飄々とした態度を取ることの多い鷹の魔獣がこれほどまでに扱いに苦慮する存在があるのだという現実がサイラスの目には少し面白く映った。

「フィル。こうなっては仕方がない。二者択一だ」
「何と何から選ぶっていうのだい?」
「お前が鷹の姿でフラップを運ぶのか、天乙女の権能で空間をつなげるか、のどちらかに決まっているだろう」

 当然のことを尋ねるなという顔をしている自覚はある。
 そういう顔でなければ鷹の魔獣を説得するには足りない。わかっているからこそ、無理難題を顔色一つ変えずに放った。学問の徒であると同時に学問の師でもあるサイラスにとって、対面する相手に向ける細かなニュアンスを使い分けるのはそれほど困難ではない。そうでなければトライスターの賢者などと称されないことを、サイラス自身が一番よく理解していた。
 他者というのは決して自己にはなり得ない。共感を与えたいのなら相手の思う想定の範囲を定義する必要がある。フィリップとは、それほど長い時間を過ごした間柄ではないが、それでもサイラスは確信していた。この鷹の魔獣は決してあるじを蔑ろにするような、薄情な存在ではないことを。
 その証左にサイラスの二つの選択肢を聞いて、フィリップはさっと顔色をなくす。

「馬鹿なことを言うものではないよ。君だってわかっているだろう? フォノボルンの権能を使ったら君は膨大な負担を強いられるのだよ?」

 あるじの身を案ずる善良なる魔獣の言葉が聞こえたとき、フィリップの中に確かにサイラスの立ち位置というものが存在し、受容されているのを感じた。

1 2 3 4 5 6