「若いの、それでは貴殿にはこと足りぬであろう」
「――えっ?」
誰かに話しかけられる、という当たり前の行為を受けて文輝は一瞬、頭の中が真っ白になった。不法侵入、窃盗。律令で罰せられる罪が思い浮かんで、それは平時の基準だと自分自身に言い聞かせて文輝は背後を振り返った。
「平服を着ておられるが右官の方であろう。こちらへ来られよ。神器は使い手を選ぶ。貴殿に見合うものを見繕ってしんぜよう」
老いた刀匠が先ほどまで槌を振るっていた厳しさと別離した眼差しで文輝を見ている。
煌々と燃え上がる炉と赤く焼けた鉄の塊はいつの間にか老いた刀匠の弟子が続きを引き受けていた。槌の音はまだ甲高く続いている。ここは忘却と失念の中にいないのか、とぼんやり思って、そうであれば文輝が罪を犯したことは明白になり、関係各所に迷惑がかかることを想定した。気が急いていたからとは言え、相当な失態だ。右官府はどのような弁明をするだろう。文輝はまず、罷免に違いない。
それでも。
必要なことだったからした。咎められても行わなければならなかった。
弁解は全てが終わった後でも間に合う。罰を受ける覚悟は最初からあった。
それが文輝の国官としての生き方だ。
罰せられるのを恐れて民の暮らしを守ることは出来ない。傷付く道を避けて、人の命を守ることは出来ない。
だから、文輝は刀匠と対峙した。
武具を打っていたときとは比べものにならない、穏やかな顔で彼は文輝を見ている。
「――貸して、いただけるのですか」
「東山を登られるのであれば、だが」
「――どうして、それを」
「儂はもうこれ以上、白喜様が苦しまれるのが耐えられん」
老いた刀匠は神器を打ちすぎて人と仙道との境目にいるのだと言った。人でも仙でもない。そんな風に自虐したが、彼は真実それを恥じているようではなかった。
煤の匂いがする。火の粉が弾ける音が不規則に聞こえて、その合間にひゅうっと刀匠たちが息を飲む音が印象的に耳朶に残る。槌を打ち付ける硬質な音と連動した速度感のある鋭い音に文輝は自らの感覚がぎりぎりのところで高止まりしていることを知った。
「若いの。貴殿がもし、怪異を討ち白喜様に元のお役目に戻っていただこうとしておるのなら儂はそれを止めん。ただ、一つだけ約束してくれんか」
「何を?」
「白喜様をお恨みにならんでほしい」
火の粉がまた一つ弾ける。槌の音が甲高く響いた。
文輝はこの老いた刀匠が何を思っているのか、正直見当も付かない。
律令に罰せられる恐怖と束の間別離して、文輝は刀匠の窪んだ眼窩の向こうを見つめる。
沢陽口の城郭における白喜、というのは何なのだろう。
そんな疑問が湧いた。「信天翁」も白喜の感情を優先すると言ったのはまだ記憶に新しい。彼女や刀匠は何を知っているのだろう。その答えを直接聞かせてくれるものは誰もいない。皆、自分で知る努力をしろ、と言う。頑なに黙秘されるとそれほど重要なことなのか、という気持ちと同時に面倒臭さがじわじわと湧く。察してほしい、ばかりでは問題と向き合い続けることは出来ない。人を育て続けてきたという貫禄のある刀匠がそれを知らない筈がない。それでも彼は――彼らは皆一様に言う。白喜を尊重してほしい、と。白喜を救ってほしい、と。
「付いてきなされ。神器の倉庫はこちらだ」
刀匠がそう言って工房の外へと歩き出す。文輝は釈然としない気持ちを抱えながら、その背を追った。
工房の入り口の脇に小さな扉がある。刀匠はそれを開いて出ていく。老翁に続いて文輝もその扉をくぐると中庭なのだろうか。少し開けた空間に出た。その庭の片隅にこちらも石組みの小屋のようなものがある。鉄製の扉は施錠されているらしく、刀匠がその腰に下げている鍵の束から一つを選んで開錠した。かちり、硬質な音が聞こえたかと思うと刀匠は鉄扉を手前に開く。暑気の感じられない涼やかな空気が中から漏れ出してくるようだった。
「若いの。この中にあるのが沢陽口で作られた神器だ。その『眼』で紅く光るものが貴殿を受け入れた神器よ。あるのなら、好きに持ち出すとよい」
二つでも三つでも貴殿が持ち出せるのなら譲り渡そう。
刀匠はそう言ったが、文輝は別のことが気になってしまった。
「眼」――陶華軍の才子の眼であり怪異の眼である、この借りものの眼のことをどうして会ったばかりの老翁が知っているのか。
「『眼』――とは?」
「何。とぼけずともよい。貴殿は気付いておられぬようだが、儂らには貴殿の両目は紅玉の姿で見える。怪異から借り受けた『眼』であろう」
「あなたは――」
「『信天翁』には会ったのであろう。人と神仙と怪異の境界は曖昧でな。永く生きれば本質は変化する。変質したものは変質したものと呼応するものよ。貴殿が落ち度を感じられることはない」
急いでおられるのだろう。神器の見定めをされるがよい。
言って刀匠は半身を開く。その隙間からいっそう強い涼風が漏れ出していた。
その風に手招かれて、文輝は倉庫の中を覗く。刀匠のことを心から信じたわけではない。このまま文輝が中に立ち入った途端に扉を閉じられれば一巻の終わりだ。この城郭は事態の解決を得られず、緩やかな自死を迎える。それだけは避けたかったから、文輝は敷居の上からじっと中を見た。暗闇の中に神器の存在が自己主張している。
神器、というのは怪異はおろか神仙も斬ることが出来る。銀環の鍛冶師が白帝の鱗片を加護にして打つことにより、神力を持たせているからだ、と中科で学んだ。白龍の成長の過程で劣化した鱗が剥がれ落ちるが、その枚数は決して多くない。畢竟、白龍の鱗片を得られるものは限られている。だから、国府は銀環を与える鍛冶師を限定した。
文輝はそこまでしか知らなかった。資料の探索による学習には限界がある、ということだ。
銀環の鍛冶師と面着で会話し、神器の保管庫を見て初めてわかることがある。
神器は神格を持っている。神器にはものとしての「魂魄」と呼ぶしかないものが宿っている。
文輝が借りた「眼」がその一つひとつに色を灯す。
蒼いもの、碧のもの、紫のもの、橙のもの。幾つもの色の煌めきの中に、刀匠の言った通りに紅く光るものが二つあった。
「俺はどこまで直刀と縁があるんだ」