足跡を必死に追っているうちに山の峰に出る。寝台ほどもある巨岩の上に、探し求めた人影を見た。
九つか十ぐらいのあどけない少女の姿をしたものが岩の上に座って、鼻歌を歌っている。その歌には聞き覚えがないが、歌詞が途切れ途切れに流れてくるのを聴いた感触でわらべ歌だろうと察する。文輝の姿を見れば慌てて消えてしまったりしないだろうか。そんなことを考えながら慎重に距離を詰める。
もう少しで巨岩の反対側に到着する、その段で文輝は焦りからぬかってしまった。枯れた小枝を踏み抜いてぱきりと乾いた音がする。少女の鼻歌がぴたりと止まって、音のする方――文輝を見た。その刹那、文輝の中に言い表し様もないほどの悪寒がこみ上げる。恐怖と畏怖で肺腑が押し潰されるのではないか。右官である文輝にそれほどの圧を与えられるものは限られている。瞬間、文輝は理解した。白瑛が真実、文輝に害意を持っていなかったことと、目の前の少女が真実、人ではない何かであることを。
振り返り、圧倒的な畏怖を強いる少女は文輝に問うた。
「だあれ?」
「――」
答えられない。答えたら何かが終わる。それだけがはっきりとしていた。
それでもなお、圧力が文輝にのしかかる。名を明かせ。姿形からは想像も出来ないほどの強制力を伴って、少女は文輝にただそれだけを要求する。
「ねぇ、あなたは『だあれ』?」
答えられないのなら問答無用で外敵とみなす。そんな雰囲気すら感じさせる少女に、文輝は名乗ってしまいそうな衝動をどうにか堪える。名乗ったら終わりだ。名は体を表す。名乗った瞬間、文輝は彼女に呑み込まれてそれで終わりだ。
わかっているが答えない、という解は支持されない。
悩んだ末、文輝は小さく答えた。
「――首夏、という」
朝に別れた華軍の忠告の理由が何となく実を伴った感触がある。
絶対に名乗ってはいけない。真実の名も字名も「小戴」という愛称ですら名乗ってはならない。
そんな文輝が名乗れるものはもう一つだけしかない。
かつての友がくれた、思い出しか詰まっていないただの季節を指す「名前」を口にするしかなかった。
そして、その判断は誤りでなかったことを文輝は己が身を以って体感する。
「あなた『首夏』というの?」
可憐な少女の声で「首夏」と呼ばれた瞬間、文輝の中にある「何か」が束縛を受けたのを感じる。持っていかれた、とでも形容するのだろうか。明らかに今、何かが自分のものではなくなった。ただの愛称程度でこの支配力なら、真実「文輝」などと名乗った日には文輝はもう戴文輝でなくなるのは自明だ。
少しずつ意識が霞がかっていくのを必死に繋ぎ止めながら、文輝は少女に問う。
「君は? 君はここで何をしているんだ」
その問いに答えは返らない。白喜じゃないのか。そう問うた瞬間に全ては霧散し、少女は再び姿を消すだろう。わかっていたから確信を突く問いを発することは出来なかった。
逡巡する文輝の視界で少女は笑みを綻ばせて告げる。
「わからないの」
「――何が?」
「わたしの名前も、帰るところもわからない」
だから、わたしにも名前をちょうだい。
言って屈託なく笑う少女に何と答えるのが正解か。わからないが、文輝の視界には二つの文字が浮かんでいる。それを告げていいのか。呼べばもう後戻りは出来ない。
虫の声がじりじりと響く。
少しずつ薄れていく自我を保ちながら、文輝はそれでも少女の名を呼ぶべきなのか。永遠にも近い刹那、自問自答していた。