おたかん! 01:波乱の幕開け

 信淵は今のマンションに越して来てから、周囲にどんな店や施設があるのか、という基本的な情報を歩いて観察していた。一ノ谷が連れて行ったのは、信淵が高級すぎて場違いだ、と思って立ち入ることもしなかったビルの二階にある。ショップの入り口に置かれた黒板に白墨で書かれた値段設定を見ると、信淵が思っていたよりは安価だが、大学生が利用するには少し高価な部類にあたる。アメリカ西海岸風と言うのだろうか。洒落た店内は落ち着いている。ただ、セルフサービスの店らしく、入ってすぐのレジで飲みものを注文すると奥のカウンターから提供されるので、それを受け取ると言う庶民感覚でも一般的な方式だった。初対面の担当教官は信淵の好みも聞かずに、好きな座席を確保するように指示して会計を済ませている。テラス席の一つ手前のテーブル席に陣取って一ノ谷を待っていると、彼女は二つのカップを手にやってきた。
「信淵クン。キミはこっちでいいだろ」
 と信淵の正面にタグがはみ出しているカップが置かれる。スリーブには油性マジックの荒い字でチャイと書かれていて、どうやったらこのメニューを選択するのだ、と言う疑問が生まれた。確かに。確かに、信淵はチャイが好きだ。だが、正真正銘、初対面の相手にどうやったらチャイなどという変化球を投げる勇気を持てるのか。あまりにも疑問で、不躾なのは承知で一ノ谷におもわず尋ねてしまった。
「あの、なんでこれなんですか」
「おや? 好きだろう?」
「俺、あなたとまだチャイの話をする仲じゃないと思うんですが……」
「ああ。そうだね、そうだった。済まない、ボクはそう言うことには気が回らなくて」
「はぁ」
「そう言うことも含めて説明の適任者がもうすぐ来るさ。さ。冷めないうちに飲んでやってくれ」
 言いながら、一ノ谷は彼女の分だと思われるカップの蓋を開けて、まるで常温の飲みものを飲むようにぐいぐい飲んでいく。この美女はどうなっているのだ、と思いながらも信淵もまたチャイに口を付けた。熱い。そしてスパイスの香りがいい。何ならソイミルクに変更してくれたことすらこの上ない気遣いだと感じる。どうして一ノ谷はこんなにも的確に信淵の好みを熟知しているのだろう。不思議なのに、極上の水でも飲むかのようにドリップコーヒーを飲んでいる彼女を見ているとどうしても悪意だけは感じられなかった。
 ソイチャイが三分の一ぐらいまで減った頃合いで、二人組の女性客と一人のスーツ姿の男性がやって来る。信淵たちが来店する前に既に三組の客がいたから、これでちょうど店内は半分埋まったことになる。それぞれ好きに会話をしていても、ノイズとして干渉してくることもない。上手くは言えないが、どれほど聞き耳を立てても別のテーブルの会話は聞き取れない。何か幕でもかぶっているかのように、信淵の聴覚で認識出来るのは一ノ谷の声だけだった。
 だから、その「適役」が到着したことに気付いたのは彼が信淵の隣の席にどかりと座ってからだった。
 先ほど、レジで商品を注文していたスーツ姿の男性の方だ、と気付いたときにはどこからどう見ても明らかに抹茶ラテを飲んでいる。しかも、この時節にアイスの、だ。
「相馬クン。遅かったじゃないか」
「黙れこのお気楽昼行灯。俺はお前とは違って本業が忙しいんだ」
 細長い眼鏡のフレームの向こうで相馬が一ノ谷を睨みつける。その眼光の鋭さと声音の強さに、信淵は怖い人がきてしまったなという感想を抱く。
 そんな信淵の胸中を知らない一ノ谷は相変わらずの豪放磊落な態度で相馬をけたけたと笑い飛ばした。
「えぇー? それはキミが全部背負い込むからだろ? ちゃんと部下に配分しなよ」
「そんなことをしたらチェックだけに何十時間かかると思ってるんだ。俺が直接やる方が百倍は早い」
「そこまで含めて配分するのがキミの仕事だと思うけど?」
 まぁ精々ブラック企業の社畜でも頑張りたまえ。言って一ノ谷は「適役」の不満を一刀両断に切って捨てた。
 そして。
「信淵クン。これが我ら九条八家の代理人・相馬浩之(そうま・ひろゆき)クンだ。見ての通り、不器用生真面目一哲で会計事務所のボスをしているね」
「相馬だ。君のことはあらかじめ調査しているから君からは特に説明は不要だ」
「調査──? 何の?」
「九条八家の家長としての素養があるかの調査だ」
 何だ、そこから始めなければならないのか。言外に含まれたその部分を聞き取って、信淵は責められているような感覚を抱いたがそこは一ノ谷が責任を被ってくれる。
「相馬クン。信淵クンは今日の午前中まで『民間人』だったんだから、そこは手加減してあげたまえよ」
「わかっている。俺が責めているのは志筑ではなく、お前だ、この職務怠慢学者め」
 言って相馬浩之はテーブルの盤面を叩く。そんなことをしたら店に迷惑だろう、と信淵は周囲の様子を恐る恐る覗ったが店内に変化はない。小さな違和感が信淵の中にまた一つ蓄積される。この店は──どうやら一風変わっているらしい。そんなことを認知しだしながら、信淵は二人の大人たちのやり取りを見守った。
「えぇー? ボクにそんなこと期待されても困るぜ」
「志筑。この馬鹿とは積極的に関わらないようにしろ。俺からの最初の忠告だ」
「えっ、あぁ、はい。ええ、と」
「まぁ、空中で説明されても理解が及ばないだろう。今、資料を出してやる」
 相馬はそう言うが、どこからどう見ても彼は手ぶらでやってきた。スマートフォンの画面か何かでも見せてくれるのだろうか。そんなことを思いながら待っていると相馬は右手の指先で何かを宙になぞる。その軌跡が一巡して出発点まで回帰したとき、燐光を帯びて輝いたかと思うとノート大の古書が出現した。どうやら幻の類ではないらしく、相馬が慣れた手つきで頁を繰る。その度に紙が擦れる独特の音がして、信淵の理解の上限を一瞬で凌駕した。
 今、目の前で起っているのは何だ? 手品の余興か? そんなことを思っていると相馬の口にする説明の一切が飛び込んでこない。それすらも面白がっている風の一ノ谷の額を相馬が指先で弾いているのもまた異邦の風景に見える。
「志筑。一番最初に言っておこう。俺たちはお前には奇異に見えるかもしれないが、皆、異能の持ち主だ」
 その中には信淵自身も含まれる、と言うのを耳朶の遠くで聞いたとき、信淵はどうしても性質の悪い冗談にしか聞こえなかった。

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