五摂家というのは遥か昔、平安時代に生まれた言葉だ。一条、二条、九条、鷹司、近衛。藤原氏を祖とする五大名家のことを指すが、時代は流れ、文化は移ろい、主権の在処もまた皇族から公家へ、武家から民へと移り変わる。その流れの中にあって血統の正しさは失われたり残ったりしているが、相馬たちの言う「五摂家」と言うのはどうやら公家の話ではないらしい。
「この世界を見守るだけの存在が『五摂家』さ。ボクたちは『観測点』と呼んでいるね」
「血統として藤原氏の血を繋いでいるかどうかは俺にもわからん。ただ、そういうモノがいる、と理解してくれ」
「まぁ、観測点は観測をするのが仕事で、ボクたちは観測点に力添えをするのが仕事、っていう感じかな」
「俺たちの宗主は九条孝徳と呼ばれている。だから、俺たちは九条八家と名乗っているが、本当に君は何も知らないのか?」
「相馬クン、それは京極クンからも聞いただろ? 志筑の家はもう何代も異能者が途絶えていたんだ。信淵クンのご両親だって彼自身だって運が良けりゃきっと今頃『民間人』として人生を続けていた筈さ」
相馬が取り出した古書はその外見に反して謎のテクロノジを持っていて、頁を繰って相馬がなぞれば立体映像として再生された。空想科学でよく見る立体視だ、と思ったがそれを口に出来るような雰囲気ではなく、次から次へと展開される資料を噛み砕くのに信淵は苦慮した。
信淵は元々史学には疎い。法律家を志し、法学部に進学した筈だった信淵にとって歴史のことや概念のことはよくわからない、という他ない。
それに。
「その、異能って何なんですか? 俺は別にそんなもの持ってないと思うんですけど……」
「何を言っているんだ。信淵クン。キミは相馬クンのテキストが視えているんだろ?」
一ノ谷の問いかけには首肯したものの、信淵の世界では魔法にも等しい相馬の技術に匹敵するものなどない。今が正真正銘、初めて異能に触れるのだ、ということを理解してもらわなければ、と意気込みながら一ノ谷に向けて首を横に振ると彼女はこれ以上ないほど呆れた顔をした。隣からは日本海溝に潜る準備だと言わんばかりの溜息が返ってきて、信淵は何かをしくじったのだということだけを強制的に理解させられる。
「そういう不思議な能力は俺にはないと思います」
「──はぁ……そこからの説明か」
「?」
難敵を押し付けてくれたなこのクソ学者。隣に座る相馬の表情を読み解くとそんな感じだ。多分、この二人は業務上仕方なく交流を持っているだけで、本来はお互いに関わり合いになりたくない類の人種なのだろう。信淵の踏み抜いた地雷の大きさに一ノ谷はバツが悪そうに視線を泳がせている。「白川教授、何か言うことがあるんじゃないのか」と相馬が低い声で唸ったところでようやく一ノ谷も諦めたらしく、諦観を示して信淵と対峙した。
「あのね、信淵クン。このカフェは異能者にしか立ち入ることが出来ないんだ」
「? 意味がよくわからないんですけど」
「キミも心当たりがあるんじゃないかな? ここはキミの生活圏内にあるけど、キミはこの店のことを知らなかった」
この街に引っ越してきてまだ一週間ぐらいしか経っていない。近所の探索を十分に済ませられていないだけだ、と反論したが一ノ谷はそれを取り合わない。寧ろ。
「キミはこのビルディング自体のことを『意識』することが出来ていなかったんじゃないかな?」
「それは、どういう──」
「要するに、だよ信淵クン。人は見えるものしか見ることが出来ない。キミの感覚器はこの建物をスルーしようとした。つまり、キミの意識外のものとして扱った、ということさ」
「何の為に?」
「勿論、決まっているじゃないか。キミ自身の平穏の為に、だよ」
知らなければ安寧に過ごすことが出来る、という一ノ谷の言い分に信淵は反駁しようとした。知らなかったで許されるのは子供の言い分で、大人であるのならどうしてそのプロセスに至っていないのかを自問する必要がある。では全知全能でなければ人は遍く罪人か。哲学なんて語りたくもない信淵はその答えを持っていないが、ただ、見えるものしか見ることが出来ない、という暴論には今、信淵自身の体験から何となく同意出来そうな気がしていた。
多分、一ノ谷の言葉を借りるとこうなるのだろう。
「『この店では聞こえる音しか聞こえない』のもその意識のスルーだってことですか」
「ブラーヴォ! ブラーヴォ! いいじゃないか、信淵クン! いやー、キミが話のわかるやつで助かるよ」
一ノ谷が一際大きな声で感嘆を示す。それでも、店内には何の変化もない。周囲には一ノ谷の歓声が「聞こえていない」のだろう。信淵が自ら口にした仮説が証明された瞬間だった。
隣に座った相馬が何故か疲労感たっぷりに先ほどよりも大きな溜息を吐いたかと思うと信淵の後頭部がぐしゃぐしゃになる感覚がある。痛くはないが、乱雑に撫でられたようで、信淵は抗議をすべきか、一瞬迷う。そんな信淵をどう捉えたのか相馬は真面目な顔で言った。
「志筑。いいか、お利口さんの君には無理難題でもこれだけはよく覚えておけ。相手の言うことを一々真に受けて地雷原に突っ込むのはやめろ」
「でも、相馬さん、このまま帰ったって地雷原からは出られないような気がするんですけど?」
「だから。その、相手の言葉に一々真摯に反応するのはやめろと言っているんだ」
「じゃあ、相馬さんの言い分を無視します。それで? 俺は一体何になったんですか一ノ谷さん」
「志筑!」
「相馬さんは俺に、意味わかんないまま、意味のわかんないことに巻き込まれ続けろって言うんですか? そんなのってないですよ。自分が何をしているのかも知らずに面倒ごとに巻き込もうとするのはやめてください」
それが出来ないのなら最初から理解など求めるな。理解して欲しいのなら、相応の態度と覚悟を持って欲しいと言ったつもりだが相馬は傷付いたのは彼の方だと言わんばかりに苦く唇を引き結んでしまった。
ボクらの相馬クンをして黙らせるなんてキミには弁舌の才能があるね、と一ノ谷が明るく笑って、空になったカップからコーヒーを飲むのに失敗する。
どうやら彼女もまた信淵を巻き込んだことについては良心の呵責があるらしい。
取り敢えず。この話はまだ終わりそうにもないのに全員の飲みものが空っぽになっているのは由々しき問題だ。二杯目のチャイを所望すると今度こそ一ノ谷は晴れやかに笑って「じゃあ全員ドリップでよければボクが奢ってしんぜよう」と席を立った。