Fragment of a Star * 06:買い出し

 その、若草色の紙袋をそスティーヴに持たせると女鹿の魔獣はそっと眼を眇める。
 痛い腹を探ってこないところが、スティーヴなりの優しさであることをサイラスもまた学びつつあった。
 そしてようやく気付く。スティーヴは馬車街全体を覆った魔術の膜に干渉しないよう、魔力をヒトと同程度まで抑えている。それは、サイラスに不必要な負荷をかけたくない、という思いがさせた行為なのだと疑わないでいいぐらいにはサイラスもまたスティーヴのことを信頼している。
 防護幕の向こうの空は青く晴れ渡っていた。
 街を取り囲む防壁の外側とは空気の質が違う。サイラスが魔術を使う前からそうだ。サイラスもまた片足を突っ込んでしまったこのシジェド王国の根源である魔術の湖の性質とは違うものを感じているが、それが何なのかはまだ判然としない。

「この街は不思議だな」
「あなたは平和な学術都市しか知らないのだもの。こんな雑踏があることも知らなかったのではなくて?」
「そうだな。ただ、この街は今までの馬車街とは少し違った魔力で満たされている」
「あるじどの、ハルヴェルまで辿り着けばこの魔力はもっと濃くなってよ」
「というと?」
「海神の守護のことは知っていて? ここから先はずっとあなたたちの父母神とは別の神の所領だから、あなたはきっと違和感を覚えるのね」

 海神——ノルティース・ギヤルドのことは文献の上でだけ承知している。貿易都市である前提として海洋都市であるハルヴェルの守護を担う、巨大な鮫の姿をした荒神だ。ノルティースが入港を拒めば海流が巻き起こり、その船は沖へと戻される。シジェド王国とはサラカンタール内海を挟んで向かい合っている島国・トルジでは人力でも魔力でもないどころか、ハルヴェルでよく見る風力を利用して航行する帆船ですらなく、シジェド国民には魔術よりなお奇怪に映る「蒸気船」という機械仕掛けの船が主流なのだが、その推進力を以てしても海神には勝てないらしい。余程のことでもない限り、トルジからの船便は内海の比較的海流が穏やかな海域で蒸気船から小型の配送船に荷下ろしをすることで運搬を成立させていた。
 トルジのヒトビトも海神など伝説上の存在であり、海流の具合だとか、海底の構造によるのだとか、色々と理由を付けて分析をしようとしたが、結局のところ六十年ほど前に内海のかなり沖合で座礁した蒸気船が特別にノルティースの憐憫を受け、ハルヴェルに入港したという経緯から今では殆ど武勇伝として両国の史書に記載されている。サイラスも勿論、シジェド王国側に残されたこの文献を読んだ。当時のヒトビトすら海神の存在を容れたというのに、サイラスは今なお、それがどういう海難事故の顛末だったのか、懐疑的な部分があり、機会があれば自らの目で検分したいとすら思っている。
 その、海神・ノルティースの神威がこの馬車街にも及んでいる、とスティーヴは説明した。
 相変わらずの磯臭さだ、とスティーヴは口にするがサイラスの嗅覚は何も感知しない。
 彼女の嗅覚を共有してもらえば何の説明も不要なのだが、お互いにそれを提案しなかったのは恐らく、サイラスのヒトの身ではノルティースの魔力の香りに中てられて正気を失うのが明らかだったからだろう。
 その代わり、というわけではないのだが、サイラスは両眼に神経を集中させる。
 テレジア——蜘蛛の魔獣の権能である視力を行使すると、確かにサイラスの形成した水色の被膜の向こう側に別の色が見えた。その色彩はサイラスの知るどの辞書にも、どの詩集にも存在しない塩梅で果てしなく続いている。確かに、スティーヴが言ったように馬車街の北側では薄く、ハルヴェルの存する南側にかけては徐々に濃くなっており、テレジアの眼でも意識して視認しなければ見落としていただろう。
 そのあまりの範囲の広さにサイラスは閉口する。

「空が青い、というのを一々確かめたりしないのと類似しているな」
「それはそうよ。あなたたちヒトが何かをどうこう出来るほど、海神というのは希薄な存在でないもの」
「に、しても、だ。本当にソラネンの外というのは興味深いものだ」

 海神。天乙女。魔獣。ヒトビトの埒外の存在がこうも頻繁に出現するのにそこに住まうものが大仰に騒ぎた立てたりしないのは、おそらく「そういうもの」——あって当然のもの——だからなのだろう。学術都市・ソラネンの地下水道に魔獣が眠っているのが暗黙裡に承知されているのと似ている。
 サイラス自身、漠然としか理解出来ていないが、それでもまた思う。
 ヒトというのは案外埒外の存在と隣り合って生きているものだ。色々な考えの色々な職業のヒトビトが存在するのと原理は同じで、その理屈を考え始めるときりがない。在るものをあると受け入れることで見えてくる展望もある。
 だから。

「スティ。お前の旧友が宿で待ちくたびれているぞ」
「フィーナのわがままに巻き込んでしまって申し訳なく思っているわ」

 今を共に過ごすことになった女鹿の魔獣を促す。彼女はそれを聞き流して別の問いを口に載せた。

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