僕らの泡沫 2nd.雨森哲の計画的犯行


 コンビニで温かい飲み物と使い捨てカイロを買って、屋根のある場所で座っていると「きみ、まだ家に帰ってなかったの?」と声をかけてくる存在がある。誰だ、と警戒しながら顔を上げるとさっきの喫茶店のマスターだった。
「家、さっきなくなったんで」
「ロックだねぇ。なくなったと来たかぁ」
「えっと、さっきの店の──」
「雨森。雨森治信。皆は『ハル』って呼ぶことが多いねぇ」
「ハルさんは何でここに?」
「僕んち、ここが最寄駅なんだ。同じ駅だったら一緒に送ってあげればよかったねぇ」
「いや、そんなことしたらハルさんが未成年者掠取じゃないすか」
 俺の両親なら、雨森に感謝するどころか逆に被害者づらで訴訟問題に発展させかねない。
 そういう親なんだと思っていた。殴られるわけではないし、飯も食わせてもらえるし、虐待ではない、と思っていたがどう考えても精神的虐待に該当する、と後で知って以来、俺は人の親になるという夢を棄てた。
 この時はまだそこまでは至っていなかったものの、自分の親が次に取るアクションぐらいは十八年も生きていると想像出来る。
 きっとあの人たちは俺を真剣に探すこともないだろう。警察に捜索願いを出すこともない。
 家出少年になってしまった俺は両親にとって「恥」そのものだ。
 だから。
 雨森の善意を無碍にしたくなくて牽制の言葉を投げる。
「おお、若人の口からそんな言葉を聞くとは……」
「てことなんで、ハルさんは気兼ねなく帰ってほし──」
「きみ、いい表情で音楽を聴いてたから、また来てほしいんだ」
 雨森が前後の脈略も俺の希望も聞かずにそう紡いだ瞬間、俺は暗闇の中なのに不意に光が灯ったような気がした。
 俺が? 音楽を? いい顔で聴いていた? また来てほしい?
 何を言われているのか、一瞬理解しかねて反応が遅れる。
「えっと、」
「家がないなら僕んちに来てくれてもいいんだけど、『未成年者掠取』って言われちゃうと確かに、って感じもあって。でも、僕はきみが楽しそうに音楽聴いてくれて、今日、お冷注ぐのがとっても楽しかったんだ」
 こんな日は何年ぶりだろうねぇ。
 俺の向こうに数時間前の喫茶店の様子を思い出しているらしい雨森は素直に嬉しそうだった。
 嘘じゃない言葉だとわかる。
 わかるからこそ、言ってしまいたくなる。
 ずっと、あの店にいたい。あの店にいて色んな曲を聴いていたい。
 ひっそりとした夜の湖面に浮かぶ月でも見ているような美しさも燃える炎のような情熱も、賑やかなパーティのような煌めきも、ずっと、ずっと聴いていて心の底から楽しかった。あの場所にまた行ってもいい、と言ってもらえただけで俺は希望をもらった。
 希望をもらって、もらいっぱなしで甘えているのが子供のすることだという自覚ぐらいはある。
 だから言えなかった。
 あなたともっと早くに出会えたら、と思ってしまったなんて。
「ど、どうしたの? どこか痛い? ここは冷えるから具合悪くなっちゃった?」
 狼狽する雨森の姿を視認してようやく俺は自らが落涙していることを知った。吹き付ける夜風はあっという間に俺の頬から熱を奪って冷える。寒い、というのもまた今ようやく感知したような錯覚すらあった。
「きみの名前、訊いてもいい?」
「哲」
「じゃあ、哲くん。僕んちに来てくれる条件が二つあるんだけど、聞いてくれる?」
 一つは大学を卒業すること。
 もう一つは成人するまできみのご両親の子でい続けること。
「どう? 難しいことは言ってないと思うんだけどなぁ」
「……二つとも難易度高すぎるんすけど」
 センター試験の1日目を放棄してしまった以上、残っているのは私立大学の学科試験しかない。
 しかも、両親は私立大学を受けるのは不名誉と思っているからそれほど多くは出願していないし、五教科七科目の勉強をしてきてしまった。今更、二科目一点突破の専願と対等に戦うのが容易ではないと知っている。
「大丈夫。国公立は事実上不合格だけど、私立はまだ残ってるでしょ?」
「……まぁ、桜花社とかなら」
 正式名称、桜花社学院大学というこの地方では有名な歴史ある名門大学の試験は二つ出願した。
 そのことを雨森に告げると彼は一瞬、聞いたこともない学校の名前を告げられたようにぽかんとして、結局はおずおずと尋ねてくる。
「えっ? 桜花社学院に出願出来たの?」
「……一応、模試、A判定っす」
「凄いなぁ。桜花社学院受けちゃうんだねぇ。これは合格だったらお祝いしないと!」
 それが世間の認識だと今なら俺もわかる。
 俺の高校で桜花社は通っても「普通」なのだが、そっちの方がよっぽど狂った感覚だったことを当時の俺は知らなかった。
「……ゴミの学歴って言われたんす」
「どうして? あの桜花社学院でしょ?」
「旧帝以外、意味ないって」
 東京大学、京都大学、大阪大学、名古屋大学、九州大学、東北大学、北海道大学。
 これ以外の大学に進学した生徒は人としての扱いを受けない高校に在籍していました。
 そう言えばきっと世の中の九割以上が憐憫を垂れてくれる。その中でも俺の両親は名声欲が顕著で、旧帝──旧帝国大学の判定がAで安定するまで俺は休息を取ることすら許されなかった。今にして思えば、必死こいてやっとA判定の俺では大学に入ったあと、きっと講義に置いて行かれて中退の人生だっただろう。
「いいじゃない。言わせておけばいいよ。どうせ学費も二年しか払ってもらわないしねぇ」
「……えっ?」
「言ったでしょ? きみが我慢するのは成人するまで。そのあとは僕が責任を持って大学を卒業させるよ」
 桜花社の学費の明細を聞いてもいないのにそんなことを易々と請け負っていいのか。
 流石にその好意を無条件に喜べるほど十八歳というのは幼くない。
 雨森にだって家庭はあるだろう。
 彼の配偶者や子供が不幸になる可能性だってもちろんある。
 一日喫茶店に居座っていただけの俺が雨森の人生をぶち壊していいわけがない。
 それでも。そういう超次元の優しさに俺の心は少しずつ人としての尊厳を取り戻しつつあった。
「あの、ハルさん、なんで俺なんかにそんなこと言ってくれるんすか」
「『俺なんか』じゃないよ。音楽を真実楽しんでいる人はね、大事なんだ。きみだから僕は力になりたい。誰にでもこんなこと言う筈ないじゃない」
 あのね、哲くん。本当に逃げたいことからは逃げていいんだよ。
 雨森の柔らかな声音に俺は自分が何を忌避していたのかを薄っすらと察した。
 大学に行きたくないのじゃない。
 入試が嫌なわけでもない。
 ただ。
 俺のことを愛してもいないくせに義務だけ搾取するやつが両親だという人生が辛くて、どうしようもなく苦しくて、俺という個人の立ち位置がわからなくなっている。
 逃げたいのは人生でも、入試でもなかった。
 基本的人権が保障する最低限文化的な生活に一番大切な愛情が枯渇していたのだと知って、出会って十八時間の雨森にはそれが見抜かれているのを察して、どうしてこんなにも簡単なことを俺の両親は無視し続けているのだろう、と思うと胸の奥が詰まって、とうとう嗚咽に変わった。
 邪魔なのなら捨てればいい。
 そうすることで批判を浴びるのが嫌で無理やり育てるぐらいなら捨ててもらった方がずっとましだ。
 誰でも持っている筈の愛される権利が欲しくて、そう願うことさえ許さないのならいっそ殺めてくれればよかった。
 雨森がどんな心づもりで俺に手を差し伸べているのかはわからない。
 わからないが、両親より学友より、教師より、予備校の講師より、ずっとずっと雨森は俺という個人を尊重してくれるのだけが間違いなくて涙が止まらなかった。

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