僕らの泡沫 2nd.雨森哲の計画的犯行
それからだ。
高校三年の一月半ばに中退は流石に学歴が勿体なさすぎる、と雨森が気を揉み、業界の色々な伝手を頼ってどうにか法律的に問題のない落とし所を探って、俺は受験と高校卒業の二つを無事成功させた。
卒業式の翌日──三月から、俺は雨森の店でバイトをしながら、桜花社学院大学法学部の学生となることが確定して、関係者と祝杯を挙げていると宴の半ばぐらいから一組の親子がやってくる。二条芸能プロダクション、という芸能界では中堅規模の事務所の社長夫妻とその一人息子らしいが、もっと高名な肩書きを持つ業界人だらけだった宴席ではどちらかと言えば控えめな存在だった。
なのに。
まさかのまさかで、俺は当時十歳の二条幸篤に一目惚れしてしまった。まず性別。そして年齢。落ち着いて考えるとこれから法律を学んでいくものとして、絶対にやってはいけない過ちを犯しそうな気持ちのことを考えて理性と知性という鎖で自分自身を強く戒める。
幸篤のことがどうしても気になるし、もっと話してみたいが、俺はただの取引先の十八のおっさんだ。十歳から見ると十八なんておっさん中のおっさんだとわかるぐらいにはまだ常識が残っていた。
どうしよう。どうしたらいい。こんな気持ちは生まれて初めてだ。
十歳なのに凛とした佇まい。クールなのに愛想がないわけではない絶妙なポーカーフェイス。人好きのする態度。極めつけが「おじさん。俺、おじさんの曲、好きだな」だ。作法を習い始めたばかりでまだピアノを叩くことしか出来ない俺が一番最初に書ききった楽曲のことを素直に好きと言ってもらって喜ばない作曲家などいないだろう。
どうすれば彼ともっと長くいられるか、を必死に考えた結果、元の場所に戻ってくる。二条芸能プロには確か、男性アイドルの部門がある。幸篤の父親の話を断片的に整理すると、いずれは幸篤も芸能界にデビューするだろう。ならば話は早い。俺が、幸篤の歌う曲を書けばいい。それが最短距離だ。
残念ながら俺自身がアイドルになり、二条芸能プロに所属するのは些か困難が過ぎる。
何年かかるだろうか。幸篤が成長するまでに彼に相応しい音楽家になることが出来れば、俺は大義名分のもと、幸篤と会話をする権利が得られる。
何年かかる、じゃない。
やってやろうじゃないか。学業もバイトも、作曲も何もかも全部必死でやって、最高の到達点を目指してやろう。
そんなことを思いながら法学部を首席で卒業し、司法試験には一発合格。学歴も資格も手に入れ、名だたる弁護士事務所からも就職の打診が来たが全て断って俺は二十二の歳にフリーランスの音楽家として独立した。
実質、十八から音楽家の活動していた俺には四年のキャリアがあり、独立したと言っても既に顧客はある程度持っていた。
二条芸能プロに何曲か納品するのを繰り返しているとうちに所属しないか、と社長──幸篤の父親から打診される。それも断って自営業を続けているのは他意とかそんな高次元の話じゃない。ただ、幸篤の周囲にいる一番歳の近い憧れの存在になりたかったからだ。
下心しかない。
っていうか、下心がなかったら今頃俺はきっとこんなにたくさんの楽曲を作ることはなかっただろうとすら確信している。
流石に二十代前半の俺と四十代半ばの社長との人生経験の差は歴然としていて、俺の下心はとっくに見抜かれていた、という結果を知った日は少し泣きたかった。
「雨森くん」
「今度は何の用件です? 新しい楽曲、収めたとこじゃないですか」
「いや、今日は音楽の話じゃない」
「じゃ、俺、帰りますね。音楽の話以外、興味ないんで」
「──幸篤の話だと言っても、帰るのか?」
「えっと、何が?」
帰りますよ。お疲れ様でした。
バクバク鳴る心臓をどうにか心の手で押さえつけながら──本当の肉体の手で押さえたらバレるどころの騒ぎではない──俺は平静を装って二条芸能プロの事務所を出て行こうとする。まだだ。まだ、十分に成功していない。今、ここで邪推を確定に変えるのは誰にとっても何の利もない。
くるり、踵を返した俺の背中に「君が本当に幸篤のことを思ってくれているなら、頼みがある」と真剣な声が飛んできた瞬間には俺の初恋が終わったのだと確信させるぐらいだった。ああ、これは身を退いてくれ、の話だ。
だのに。
「あの子が二十二、世間でいう『社会人』の年齢になるまで今の君のままで接してやってはくれないだろうか」
「──は?」
何を依頼されているのか、一瞬理解に苦しんで無様な声を上げることしか出来なかった。
どういうことだ? 俺は拒絶されているのではないのか。混乱しながら社長席を振り返ると至極真面目な顔をした二条社長がこちらを見据えていた。
「分別のある十分な大人に無理を強いるのは私としても心が痛む。君があと七年待ってくれるなら、私としてもその先のことは干渉しないと約束しよう」
どうだ? 悪くない話だろう?
一分の揺れすらなく二条社長は俺への提案を終える。
流石は芸能界の荒波を生きているだけあって、その堂の入った態度からは有無を言わせない強制力があった。人を見抜き、その個別の事案に適切な態度で臨む。知っている。俺の実の父親のように強権的に振舞って苛立ちのままに感情をまき散らしている愚ではない。望む結末を迎える為に二条社長は最善の妥協点を俺との会話で見つけようとしている。そう、俺、という人格を否定するのではなく、認め、評価している。器の大きさに完全に呑まれた俺は無様にも対等のビジネスパートナーを演じようとして失態を披露した。
「ちょっと待ってください。ボイレコ用意するんで、もう一回同じこと喋るか、書面にしてくれます?」
「……ふ。意外と君も面白い人間だったな」
「いや、あんた笑わせても一文にもならないんですよ。エビデンス、大事なんですよ、エビデンス。証拠のない約束はこの時代無効なんです、後からどんな言い訳でも出来るんです。口頭指示。世の中で一番やっちゃ駄目な奴ですよ」
早口で社会の常識をまくし立てると二条社長は更に真面目そうな顔で反論を述べる。
「しかし、君のいう通りに書面に起こすと私がコンプライアンス違反になるが?」
「法律的に成人男子の交際相手を制限出来る判例なんて戦後一例もありませんよ」
「そうだ。だが、恋愛感情やそれらを利用して配下の業務に干渉するのは確実にコンプライアンス違反なんだが、そのことについてはどう思う?」
「もう真っ黒ですね。コンプライアンス、全く遵守されてない」
「君がそのことで訴状をもらったらどうするのか、後学の為に聞こう」
何ていうことだ。法学部出身でありながら人生の荒波に揉まれていない俺より、二条社長の方がずっと冷静な判断をしている。会社経営というのは、俺が考えているよりずっと現実問題を直視しなければならない職業だった。
俺は個人事業主だから、俺のミスは俺だけの問題だが、二条社長はそうではない。
二条芸能プロダクションという組織全体のことを見通す目は俺にはない。
もし、万に一つもコンプライアンス違反や重大な倫理規定の軽視が見受けられれば会社は傾く。
そういう複雑な立場の上にいる二条社長の目から見て、何が懸念なのか、を彼は婉曲な言葉のやり取りで俺に「教示」しようとしている。