Wish upon a Star * 09:You are Different

 学術都市ソラネンは林野を内包した姿をしている。
 街中に林立する樹木たちをそのまま生かしているため、石畳の街路はときに大きな迂回を強いられた。魔術師ギルドである尖塔からサイラスの寄宿舎までは直線距離にして五分程度だが、実際に街路を駆けていくと到底五分などでは到達出来ない。おそらく、街路のままに進めば二十分程度を要するだろう。その道を今朝のように歩いてきたのでは四十分以上かかることになる。そのぐらい、ソラネンの街路は複雑な様相をしていた。
 樹木の間は大地母神フェイグの息吹が眠る場所だ。ソラネンにおいて林野を蹂躙するということはフェイグ母神を冒涜するのと大差ない行為であると言える。だから、ソラネンの住人たちはよほどの理由がない限り、みだりに林野に立ち入ることはない。たとえそれが四十分の迂回を強いる道のりになったとしても。
 ただし、それは平和を享受しているからこその理想論であり、サイラスたちに現状、時間的余裕はない。
 騎士として母神を敬うと誓いを立てたシキ=Nマクニールが超法規的措置を提案するのもまた自然な流れだった。
 石畳の上を駆ける二つの足音が幾つめかの曲がり角に差し掛かり、減速する。速度というのは直線上でしか上げられないのにこの街は途方もない数の曲がり角が待ち受けている。減速、からの加速、を阻む減速の繰り返しにシキの焦りが募っていくのを彼の背でサイラスはひしひしと感じていた。道順も速度も今のサイラスに口を挟める余地はない。シキを信じて、寄宿舎に辿り着くのをじっと見守っているしかない自分が歯がゆかった。
 そんな折、シキが言う。

「トライスター、貴様の宿は林のすぐそばだったな」
「そうだ。寄宿舎街の南のはずれだ」
「で、あればだ。林を抜ける」

 林を抜けてはならない、と誰かが決めたわけではない。法律も戒律も決してそれを禁じていない。
 それでも、ソラネンのものは畏怖から母神の一部である林に立ち入るときは母神に祈るときだけだと暗黙の了解で生きている。シキは今、それを反故にしようとしている。母神を敬い、忠節を誓い、清廉潔白に生きていくことを宣言した騎士であるシキにとって、それは決して褒められる行為ではないだろう。
 それでも、シキは迷いなく真っ直ぐに前を見つめたまま言った。

「正気か、マクニール」
「トライスター、俺は信仰を棄てるとは言っていない。緊急事態であればフェイグ様の御前を駆け抜けることも許していただけようし、それに」
「それに?」
「命あっての物種だ。生きていなければフェイグ様に忠節を誓うことも出来ん」

 だから、サイラスの為に何かを犠牲にするのではなく、自らの意志で自らの為の行動を選ぶだけだ、とシキが言い切ったとき、後頭部しか見えない彼から強い輝きを感じた。
 人は自己満足の世界の生き物だ。生きている間に様々なことを認知するが全て自分の価値観を通してしか理解出来ない。共感も同情も全て主観の上に成り立っている。本来の意味で感情を共有することなど不可能で、それでも人は別の誰かの感情に沿おうとする。神から見れば無駄な努力なのだろう。無駄にしか見えないその自助努力を尊いと思う、と自覚したときサイラスは自らが他人という存在を貴んでいることを知った。
 人を呪い、人を蔑み、人を恨んで生きていくことも出来る。
 十年前のあの日、サイラスは全てを失った。その不幸を嘆き続けて生きていくことと別離出来たのが奇跡に近いことも知っている。サイラスが悲劇の主人公などではなく、ただのサイラス・ソールズベリ=セイなのだということをファルマード司祭が教えてくれなかったら。あの夜、マグノリア・リンナエウスと出会わなかったら。ソラネンの人柱としての役割を得なかったら。多分、サイラスの人生は多方面的な意味で終わっていただろう。
 だから。
 慈しみを慈しみと、思いやりを美徳と受け入れられるだけの優しさをくれたこの街を守りたい。そんなサイラスの気持ちと同じ方を向いているシキのことも信じたいと思う。

「坊ちゃんもたまにはいいこと言うよなー」
「傭兵。貴様、その上から目線でものを言うのを即刻やめろ」
「そういうことばっか言ってるから坊ちゃんは坊ちゃんなんだよ」

 シキは人を名前で呼ぶことが少ない。
 大体は肩書きで呼んでそれで終わりだ。同じ肩書きを持つものがいれば識別のために名を使うこともあるが、基本的に名を呼ぶということを神聖視しているきらいがある。よそよそしいのではない。シキなりの敬意の払い方なのだろうとサイラスは推測している。
 そのことをウィリアム・ハーディも知っているだろうに「傭兵」という呼称の向こうにあるものを照射しようとした。サイラスにとってみれば、ただの「名前で呼んでくれてもいいじゃないか」というじゃれあいの言葉にしか聞こえないのだが、シキにはその通りに届かなかったらしい。

「ふん。傭兵風情に何がわかる」
「さぁ、何だろ?何もわからないんじゃないかな」

 全知全能の神様ですら、本当のことなんて何も知らないと思うよ。そんな風に軽く言ったリアムの言葉は反語だった。まして凡夫たるリアムに何を知れるというのか、いや、何も知らないに違いない。が続く。そしてその向こうにまだ、何もわからないことについて罪悪を感じる必要はどこにもない、が続いているのを受け取ったとき、サイラスは思わず苦笑した。それはシキも同様だったらしい。人生の美しさを語るのはソラネンの平穏を取り戻してからでも十分に間に合う。今、なすべきことは美学の応酬ではなく、現実問題の早急な解決だ。

「――気が削がれた。頭のおかしなやつには付き合いきれん」

 言ってシキが速度を上げる。
 次の角を正面突破する。そんな宣言が聞こえたかと思うとぐん、とサイラスの景色が揺らいだ。隔壁を超える為の助走だ、と気づいたときにはサイラスを背負ったまま、シキの身体が空中に浮かぶ。
 そして。
 視界が明度を失った。柔らかな下草が緩衝材となり、足音が聞こえなくなる。それでも振動は安定していた。木々の小枝が時折、痛いぐらいの勢いでサイラスの顔を撫でる。その度に速度が増しているのを実感させた。サイラスの足ではこんな風に林野を感じることは出来ないから、どこか新鮮な感じがする。暗がりの中、シキが正確な足運びで駆け抜けていく。陽の射し込まない林の中は決して平坦などではない。なのにシキは石畳の上を駆けるのと何ら変わりなく進んだ。それに並走しているリアムもなかなかのものだ。そんな感想を抱いた頃、目の前に光点が見える。林の終わりだ。シキの方向感覚が誤っていなければ、この先にサイラスの寄宿舎が建っているだろう。
 それを三人が視認すると緊張感が一気に高まる。
 呼吸を乱してもいないシキがサイラスに問う。

「トライスター、変異はないか」
「見慣れない魔力の波長が二人分ある。片方がおそらくスティーヴ・リーンだろうが、残りの片方については現時点では何もわからん」
「魔獣か」
「それもわからん。もう少し情報がほしいところだ」
「ならば急ぐぞ。傭兵、貴様まだ速度を上げられるだろう。先に行け」

 顎をしゃくってシキが指示を出す。お前の指図は受けない、とリアムが反発するだろうかと思ったが彼は平然とシキの言葉を受けて速度を上げる。

「セイ、裏口から強行突破してもいいだろ?」
「テレジアへの弁明なら任せておけ。私が全責任を負う。お前の思う最善を頼む」
「坊ちゃん、セイのこと頼んだ」

 言って、リアムの背中が一気に遠ざかる。その後を追ってシキもまた林の先へと駆け続けた。少しずつ明るさを帯びてくる視界に眩しささえ覚えているとサイラスの目の前に煉瓦造りの寄宿舎が見える。間違いない。これはテレジアの切り盛りするサイラスの寄宿舎だ。

「トライスター。後は貴様で何とかしろ」

 俺はここまでのようだ。先行したリアムの手によるだろう、無理やりにこじ開けられた木戸の前でサイラスは地面に降ろされる。暗がりの中ではあんなに安定していたシキの呼吸が大きく乱れていた。大きく息を吸い込む音が寄せる波のようにサイラスの耳に届く。「助かった」と「ありがとう」を口にするのはもう少し後の方がいいだろう。そう判断してサイラスは木戸の中へと駆け込んだ。背中の向こうで毅然とした振る舞いを保っていたシキが路面に倒れ込む音が聞こえたが、サイラスは振り返らなかった。多分、シキもそれを望んでいるだろう。
 感覚器官を総動員してサイラスは寄宿舎の中を進む。魔力の波長は寄宿舎に入った辺りからはっきりと手に取るように感じられていた。サイラス自身の波長と共鳴するもの――テレジアの波長が一つ。それとは混ざり合わないものが二つ。それ以外は特に感じられない。寄宿舎で魔力を持つ学生は全部で三人いるが、彼らは外出しているのだろう。宿の外の遠くに波長が感じられた。
 テレジアの判断なのか、ただの偶然なのかは判然としないが彼らが外にいる方がサイラスとしてもやりやすい。犠牲になるものは少ない方が楽なのだから。

「テレジア! リアム! 無事か!」

 波長の在り処を手繰って石造りの階段を駆け上る。三階の二室のうちサイラスの部屋でない方に魔力が集中しているのがはっきりと手に取るようにわかる。そこは今、空き室になっている筈だ。サイラスの部屋に施した結界が破られている気配もない。何をしているのか。逸る気持ちを抑えながら、サイラスは部屋に飛び込んだ。
 そこに待っていたのは意外なことに寛いだ様子で茶器と向かい合っている四人の姿で、サイラスはあっけにとられる。

「テレジア?」

 ぽかん、と間抜けな顔をしていただろう。サイラスが寄宿舎の女主人に声をかけると彼女は幼子を相手にしたように肩を竦ませた。

「坊やが戻ってくるまで何も話さない、ってさ」

 言って、テレジアは正面の席に座る年若い男女に視線を投げる。サイラスが感じ取った通り、片方の椅子に座っているのは昨晩、この耳で聞いたエレレンの名手だ。昨日と何ら変わりなく気高く美しい姿をしていた。
 その隣にいるのはスティーヴと似た波長の魔力を持つ青年で、テレジアの言動に対して静かに激しているのが伝わってくる。

「ぼくたちは別に諍いを起こすのが目的ではない、と何度言えばいい」
「そう言うのならまずその『外装』をどうにかおしよ」

 外装――というのは多分、二人が身に纏っている刺々しい魔力のことだろう。この二人は二人が二人ともヒトならざるものなのだとテレジアの言葉が暗示していた。ということは、だ。この二人は魔力だけの末端で、本体はソラネンの外に控えていると考えるべきだ。

「仕方がないとは思っていただけないのかしら? わたしたちはこの街で唯一の異分子。己の身は己で守るしかないの」
「あたしの宿でそんな無粋な真似が通ると思われているのが不本意だね。坊や、あたしのあるじは本当に魔獣を見る目があって幸運だと思い知らされるよ」
「テレジア。私の分の華茶はないのか」

 敵意を露わにしている相手を煽るな、という意味を込めて別の言葉を放る。煮豆茶を飲んでいたリアムがぐっと固まって、そうして幽霊でも見たような顔をしていた。
 外敵かもしれない相手を目の前にして、それでもサイラスは最善を選ぼうとしている。その為には平静が必要で、少しでも多くの相手の情報を得なければならない。理屈なら誰でもわかっているだろう。それでも。恐怖と不安で逸る気持ちよりもサイラスは対話を望んだ。テレジアが呆れたように笑う。

「――本っ当に肝の座ったあるじだよ、あたしの坊やは」
「それで? ないとは言わんだろうな」
「自分の部屋に好きなだけ揃えて置いてるじゃないか。取りにお行きよ」

 暗に「ない」という言葉が返ってくる。テレジアの言う通り、サイラスの部屋の戸棚には色々な種類の華茶が揃っている。国内外を問わず、サイラスの好みだと思ったものが十数種類あり、その日の気分で飲み分けていた。それでも、そういう問題ではない、とサイラスは主張する。

「私が戻ってくる、と確信していたなら華茶ぐらい作り置いてくれてもいいだろう」
「嫌だね。冷めた茶は気が利いてないだの今日はこの茶葉の気分じゃないだの言われながらどうしてあたしがそこまで坊やの為に尽くしてやらなきゃならないんだい?」
「と、いうような間柄だ。私とこの街のダラスとは」

 わかったのならまずはその敵意に満ちた外装を解け、と言ったとき、外敵の二人は両目を見開いていた。男の方がぽつり、呟く。

「魔獣とヒトとの契約はもっと従属的なものだ」
「知らん。私に下僕は不要だ。だらか、これとはまぁ、戦友のようなものだな」
「あたしは別に下僕なら下僕でもいいんだけどね、あたしのあるじどのはそういうのがお嫌いらしい」
「私はもう子爵家の人間ではない。初心に立ち返り、一人のヒトとして生きるのであれば下僕など不要だと思わないか」

 そもそも、サイラスに人の上に立つ資格があるのかどうかすら定かではない。人を支配して、そうやって責任を負えるだけの器があるのかもあやふやだ。だから、サイラスはテレジア――マグノリアに友人であることを望んだ。対等で同じ秘密を隠して、運命共同体として生きていく道を望んだから、二人の間にわだかまりなどないのだということを示したかった。

「セイと女将らしい台詞だなぁって思うよ、俺」
「軽口を言い合う主従など見たことがない」
「少なくともわたしたちのあるじではあり得ないことね」
「一応、これでも感謝はしてるのさ。だから、坊やの好きなようにするのがあたしの本懐さね」
「それが、あなたがこの街で住人の一人としての役割を演じている理由かしら」
「ヒトの社会なんて皆そんなもんじゃないのかね。それぞれの役割を負って、それぞれに努力をする。そういう美徳を教えてくれたのも坊やさ」

 だから、あたしはこの街とこの街の住人たちのことを大切に思っているよ。
 言ったテレジアの表情には一片のかげりもなくて、彼女が真にソラネンの住人の一人であることを誇っているのを伝えた。人柱、だなんて言われてもサイラスにもテレジアにもその陰鬱さは感じられない。そういうものを期待して来たのだろう二人の客人は少しの間、気持ちの整理が付かないようだったが、結局はお互いに目配せをして本題を切り出す。

「トライスターの栄誉学者殿。あなたをソラネンの人柱と見込んでのお願いがあるわ」

 沈痛な面持ちでスティーヴが言葉を吐き出した。その「お願い」については薄々察しが付こうとしている。多分、こういうことだろう。

「お前たちと多重契約を結べ、というのならそれ相応の説明をもらえるのだろうな」
「……どこまでを知っているの?」

 半信半疑の態度を隠さないスティーヴにサイラスはふっと微笑みを投げる。サイラスの両目には今、あるものが映し出されていた。

「ウィステリア・フロリバンダ。私にはマグノリア・リンナエウスの眼がある。魔力が枯渇しているからな、これほど近くに相対せねば効力を発揮出来んがそれでも眼は本物だ。お前たちの名ぐらいなら見通せる」

 魔獣には皆、何か一つだけ特別に発達した器官がある。マグノリアは身体的にはほぼ劣等生で魔力を配分する素養もない。それらを補う技術をサイラスが教えて、そうしているうちに気付いた。マグノリアの目は真実の名を見通す。契約をしていない魔獣の真実の名を口にするとき、人は多かれ少なかれ魔力を要するから、相応の覚悟を持って名を呼ばなければならない。魔獣の名を読んだだけで死亡したという前例は魔導書の中にかなりの数が散見された。魔導書はそれを魔獣の呪いだと表現したが、サイラスは違うと思っている。自己防衛機構なのは間違いないが、多分、魔獣はヒトよりも名前という概念に強く縛られているのだろう。シジェド王国においてヒトの名はそれほど意味を持たない。偽名を使うことも別名を使うことも暗黙裡に許されている。そして、本来の名を呼ばれたところで、ヒトは何の干渉も受けない。それに対して魔獣は名を呼ばれると呼んだものの話を強制的に聞かされる。拒否をすることは出来ない。だから、対話をする相手として相応しいだけの魔力を保有しているかを試されている、というのがサイラスの結論だ。
 その結論をもとにサイラスはスティーヴの真なる名前を呼んだ。藤の花。その名を冠した鹿の姿をした魔獣。それがウィステリア・フロリバンダだろう、と言うとサイラスの心の臓がぐっと掴まれたような感覚を受けた。
 それでも平静を貫き通すとウィステリアが深く長い溜息を吐く。

「わたしたちのあるじは慧眼だったようね」
「そのようだね、ウィステリア」

 ぼくの名も見えているのだろ、トライスター。言った青年――クァルカス・フィリーデアスは諦観を顔に浮かべていた。

「クァルカス、お前はファルコか」
「そう。きみに見えている通りのファルコさ」

 ファルコ――鷹の姿をした魔獣であることをクァルカスが肯定する。二体の魔獣の名を呼んだサイラスを疲労が襲った。身体がどことなく重たい。それでも毅然と顔を上げているとテレジアが「坊や、水を飲みな」と言って栓を抜いた蒸留水を渡してきた。
 それをぐい、と呷る。尖塔の蒸留水をこんなに多用していたらいつか効力がなくなるのではないか、と僅か心配をしたが先のことに不安を感じている場合ではない。
 サイラスはそうして一息ついて、二体の魔獣と再び対峙した。

「察するにお前たちのあるじの余命が短いのだろうが、残念だが私には魔獣を三体も維持するだけの魔力はない」
「いいえ、そうではないわ。器は十分にあるのではなくて? あなたとテレジアの魔力を十分に満たすのにわたしたちも力を貸すわ。与えてほしいのではないの。ヒトと生きてきたわたしたちにとって、ヒトと関わっていることがもはや生活の一部と化しているから、わたしたちはヒトの社会の中で生きたいだけ」

 ウィステリアとクァルカスが暮らしていた街では二人の居場所が確かにあった。それと近い環境をソラネンなら得られるのではないか、と期待しているという風に聞こえる。魔獣なのにヒトと同じものを求めている。早晩朽ちる、彼らの今のあるじというのは多分、ファルマードのような人格者なのだろう。魔獣とヒトとが共存する方策を魔獣とヒトの双方の為に模索しているように感じられた。

「だから、ヒトの姿で旅をしているのか」
「ヒトというのは不思議な生きものね。人を妬み、嫉み、憎み、恨み、蔑み、滅ぼし合いすらするのに人を愛し、慈しみ、守り、想い、共にあろうとする」
「ぼくたちのあるじはそういうヒトのことを大切にしろ、と言っている」
「今朝方、あなたたちが魔力干渉を受けたダラスのことなのだけれど、あれはわたしたちにとっても害悪でしかないわ。立ち向かうと言うのならわたしとクァルカスも協力は惜しまないつもりよ」

 もし、賛同してくれるのならわたしたちはヒトとしての名前をきちんとあなたに差し出すわ。言ったウィステリアの表情に偽りのようなものは見受けられなかった。
 外敵が内部に既にいる、という可能性をサイラスは考慮していたが、スティーヴ・リーン――ウィステリアはダラスでなかった。であれば騎士ギルドの把握していない部分で外部からの侵入者がいるのだと考えられる。
 ソラネンの街は林野を内包し、高い城壁に囲まれている。その防壁に実は一か所だけ綻びがあるということを知っているのは多分サイラスと消失したファルマードだけだろう。戦闘能力に長けないサイラスたちが確実に外敵を仕留める為に敢えて外壁には綻びを残している。その場所から敵が来る、ということがわかっているというのは実は戦闘において大きな優位性を持つことと同義だ。普段は古代魔術で外壁の綻びを隠しているから、ソラネンの市民はそんな「釣り」をしているとは思ってもいまい。現に、サイラスの魔力が今、枯渇している原因である「釣り」をソラネンの二大ギルドは認知していなかった。
 釣り場には幾重にもサイラスの魔術が施されている。それを魔獣が何の形跡も残さずに通過することは不可能だ。魔力を持たないものは近づくことすら出来ないように結界を張った。では、どうすれば外部から地下水道のマグノリアを知ることが出来るのか。いや、それ自体が誤った思考なのではないだろうか、と不意にサイラスは思う。

「テレジア、十年前、お前はどうやってこの街へとやって来た」
「かか様とはぐれちまってね。餌になるようなものがないかと彷徨っていたら爺の釣り場からいい具合の魔力が漏れているじゃないか。釣りをするヒトがいるだなんて思ってもみないあたしは丁度いい獲物だったって話さ」

 魔獣が出現するのには何種類かの学説がある。霊木から生まれ出ずるから植物の名を冠するのだ、とか、魔獣の一部から分裂するのだ、とかとにかく誰も確かめたことがない出自について明確な答えは未だ得られていない。ただ、こうして魔獣と話をしていると時折、親という言葉や子どもの頃、という言葉などが出てくるあたり、完全なる虚無の世界から生まれるわけではないのだろうと察することが出来た。

「ダラスの十年はヒトの一年にも満たないのだったな」
「そうさね。あたしは坊やたちの概念で測るなら、多分まだ十代の小娘なんだろうさ」

 坊やは十年で随分成長したねえ。あたしはすっかり置いてけぼりじゃないかい。
 言って昔を懐かしもうという雰囲気を醸し出すテレジアに釘を刺そうとしたサイラスだったが、別の意図を持った言葉によってそれは遮られた。

「――ちょっと待って、待って! 女将、十代にはとても見えないんだけど!」

 よくて三十半ば。そんなリアムの言葉にテレジアが悪戯に笑った。

「坊や、リアムの坊やに説明しておやりよ。魔獣がヒトの姿をするのには理由があるって」

 こういうとき、テレジアと対等な契約を結んだ自分自身のことを詰ってやりたい気持ちになる。後ろめたい理由があるのではない。恥と思っているわけでもない。
 それでも。

「――リアム、お前が見ているテレジアは私の母の姿だ」
「えっ?」
「魔獣は最初に契約したヒトの願望を反映してヒトの姿を作る。九つの私には母親の面影が必要だった。だから、テレジアは私が唯一持っていた母親の肖像を模して今の姿をしている」

 少し早めの口調でそう言い切る。魔獣は姿を変えられるが、基礎となるのは最初の姿だと知ったとき、サイラスは困惑すると同時に安堵した。再び相まみえた母と別離するときはサイラスがこの世界と別離するときだから、二度と喪失の痛みを味わうことがない。母の姿で、母の声で母とは違う言動をするテレジアと十年を生きてきた。生きていた母が見せなかった表情もある。荒っぽい部分もある。ずけずけとものを言うテレジアのことを下品だと思ったこともある。その小さくて大きな違いが母親とテレジアを別のものだと教えてくれた。
 一人前の大人になってまで母親の面影と別離出来ないでいる、というのが一般論で言えば恥じ入るべきことだと知っているからサイラスはばつの悪い思いをしながら説明する。なのに。

「セイの母上ってきっと優しかったんだろ」

 そんなリアムの言葉が聞こえて、サイラスは束の間自分の耳を疑った。

「えっ?」
「だって女将、滅茶苦茶美人だもんな! これで性格がよかったら男は皆めろめろだって!」
「リアムの坊や。それはあたしの性格が悪いって言いたいのかい?」
「えっ? いや、そう……でもないんじゃないか」
「リアム、私の母もそうやわな性格ではなかったぞ」

 細心の注意を払った無神経な台詞に同じように細心の注意を払った嫌味が返る。ふざける展開だ、と思ったからサイラスも悪乗りに参加することにした。ウィステリアとクァルカスの二人がそれぞれの反応で呆れているのが伝わる。
 それでも。

「坊や。十年も一緒にいて、あんたはまだあたしの性格もわからないのかい」
「言わなかったか、テレジア。お前は十分いい女だ、と」

 その言葉は別の意味を持つからもっと慎重に口にしろ、という結論に至ったことを忘れているわけではない。ただ、今、言うべきときだと思った。今、言ったのならこの台詞はサイラスの思いを込めてどこまでも羽ばたいて行くだろうと思った。
 その、言葉の飛翔を受けてウィステリアが溜息を吐いた。

「わたしたちの新しいあるじも相当ひねくれている、ということを教えてくれているのかしら?」
「ウィステリア。お前の今のあるじはどうして私を後継に指名したのだ」
「決まっているでしょう。あなたならわたしもクァルカスも決して見捨てない。そう、お思いなのよ」

 優しい方だから。わたしたちの明日が定まらないことに心を痛めておられるのがわたしたちにも伝わってくるわ。言ったウィステリアの表情には葛藤が偽りなく浮かんでいて、失われゆく今のあるじと、明日を託す新しいあるじとの間で揺れているのを伝えた。新しいあるじにはいてもらわなければならない。ただ、それが本当にサイラスで十分なのか。サイラスを信じてもいいのか。ソラネンはそれを受け入れる土壌なのか。惜別の情を手放そうとすればするほど絡みついてくる状況で、それでも彼女は必死に答えを探していた。
 それを察せられないほど、サイラスは愚昧ではない。
 だから。

「ならばウィステリア。そのお前たちを見込んで頼みがある」
「何?」
「襲い来るダラスへの対抗手段は各ギルドのものが考えてくれる。魔力の充填はどの道ひと晩必要だ。その間にお前たちには力ないものの避難を手伝ってやってほしい」
「そんなことでいいの?」
「そんなことが大事なのだ」

 ウィステリアたちがヒトに対して害がなく、ソラネンにとって利であると市民たちに教えれなければならない。その為には派手な戦闘行為も有効だろう。それでも、それは力を示しただけだ。いずれその圧倒的戦力でソラネンを背信するとしたら、という不安を煽ることにもなる。
 だから。ウィステリアたちには守ることも戦いなのだと示してほしかった。
 気勢を挫かれ「外装」を解いた彼女たちの魔力の波長は穏やかで、これならばソラネンの市民たちも受け入れられるだろう、と思った。慈しみを慈しみと知っている、サイラスの思うヒトと共生出来る魔獣の波長だった。

「わたしは長く生きてきたけれど、あなたのようなヒトを見るのは初めて」
「きみはぼくたちが怖くはないのかい」
「ビンカやファルコが怖くてダラスのあるじなど務まる道理がないだろう」

 強がってうそぶいて見せるのは信頼に足ると示したいからだ。怖れはある。怖くもある。ウィステリアもクァルカスもその気になればサイラスを一息に殺めることが出来る。それでも、信じているということを先に示さなければ信頼など得られないのも知っている。信じる、という言葉の由来は生きている今を愛するというところにある。それ以外の由来もあるが、概ね人の感情に沿うことを共通項としていた。
 信じてほしい、という百の言葉より、信じている、という一つの態度が雄弁に信頼を示す。
 だから。

「お前たちの感情も、今日明日、どうにか出来ることでもあるまい。まずはソラネンの平穏を保った後にゆっくりと腹を割って話しあおう」

 その為に。僅かでもいい。何の実利も生み出さなくてもいい。ただ、協力してほしいと頭を下げることに意味があるのなら、サイラスはその任を全うしたいと思った。

「わたしたちを破壊の為に使わないなんて本当に変わったヒトね」
「そっちのきみも同じ意見、って顔をしてるけど」

 クァルカスが状況を見守っていたリアムに話題を振る。満面の笑みを湛えて、そうしてリアムは「友だちが褒められて喜ばないやつなんてヒトじゃないだろ?」と言い切った。クァルカスが噛み合わない会話に苦笑する。それでも、彼はリアムの言葉を否定しなかった。

「取り敢えず、だ。長話と洒落込んでいる場合ではない」
「そうね。それにはわたしたちも同意するわ」

 指示をくれないかしら、トライスター。言ってウィステリアがかしこまった顔をする。
整った顔立ちに緊張感が満ちると、魔獣らしいというか、ヒトとは違う次元の生きもののすごみのようなものが感じられた。
 それを今は頼もしく思いながら、サイラスは彼女たちにもまた指示を伝え、寄宿舎を再び後にする。役所に何と報告するべきか。悩みながら呼吸が出来る程度の駆け足で役所へと今度こそ向かう。ソラネンの平穏を懸けた一世一代の大勝負が始まろうとしていた。