「如風伝」それは、風のように<八>

 終業の刻限を告げる鐘が鳴り、平時であれば日勤の官吏たちが帰途についている筈の中城に長靴が石畳を駆ける音が響く。かつかつと規則的に、けれど忙しなく鳴り渡る音に退庁を禁じられた官吏たちが一様に振り向く。文輝(ぶんき)と晶矢(しょうし)、右服(うふく)の二人の姿を見ると、彼らは当然のように道を譲ってくれたので目礼して三人は白帝廟(はくていびょう)まで全力で駆けた。中城は広いが、ただ駆けただけで息が乱れるほどではない。
 内府(ないふ)御史台(ぎょしだい)を飛び出した後、文輝たちは正門で自らの得物を返却してもらった。大夫(たいふ)付の通信士も同じように短剣を受け取っていたから御史台以前の所属は右官府だったのだろう。晶矢がそこまで見抜いて指名したとは思えなかったし、もしそうだったとしても通信士は現在の右官府の配置を知らない。ただ、時間との勝負になっている今、全力疾走で中城を巡る体力のない通信士では足手まといだったから、結果的に晶矢の判断は正しかったと言える。
 駆けながら文輝はその赤環(せきかん)の通信士へ幾つかの問いを投げかけた。
 取り敢えずは会話をするうえで必要な情報だと思い、名を訊く。通信士は淡々と「梅志峰(ばい・しほう)と申します」と答えた。その名の持つ意味を通信士が説明するまでもない。大夫付の通信士もまた罪科(つみとが)の読替(よみかえ)を背負った天才の一人だということを察する。
 文輝は志峰に何と返すべきか戸惑い、結局は沈黙が返答として受け取られた。その礼を失した返答に志峰は顔色一つ変えることなく、まるで遠くの出来ごとでも知ったような態度で「お気になさいますな」と言う。文輝が取り繕いの言葉を探していると志峰はそれさえも遮るように静かに語りだす。

「正直なところ、阿程(あてい)殿に指名していただいたとき、私は『機を得た』と思いましたよ」
「何の『機』でしょうか」
「小戴(しょうたい)殿はご存じではないかもしれないが、読替の通信士など西白国(さいはくこく)では珍しくも何ともないのです」

 息一つ乱さず、駆ける足を緩めることもなく、三人は右官府の北側にある白帝廟を目指す。現在の配置では右尚書の受付の正面に廟の入り口があるはずだった。
 文輝が知っている通信士は少ない。戴(たい)家の老通信士の他は前年までの中科(ちゅうか)で配属された役所の担当者ぐらいのものだ。初科(しょか)の歴学と法学の講義で読替については学習したが、この春、陶華軍(とう・かぐん)と出会うまではそれも知識の中の存在に過ぎなかった。
 だから、志峰の言うことが上手く咀嚼出来ない。
 晶矢の方もその件については大差なかったのだろう。彼女にしては珍しく、怪訝な面持ちで志峰に問うた。

「志峰殿、それとわたしの指名がもたらした『機』というのが上手く結びつかないのだが」
「九品(きゅうほん)であるお二人にはそうなのでしょう。お二人は岐崔の外へ出たことは?」

 いっときの楽しみの旅以外で、と言外に含んでいて文輝たちは顔を見合わせてから否定する。そんな経験はない。あるとしたら中科を終えて修科(しゅうか)に進み、地方府へ仮着任するのが最初になる、と二人ともが認識していた。
 それを正直に伝えると志峰が微苦笑する。

「ならばお二人には私からお願い申し上げます」
「何を」
「決して陶華軍を憐れみ、情をかけようとなさらないでいただきたい」

 特に小戴殿、あなたに重ねてお願いします。指名で言われて文輝は驚きに目を瞠った。
 半年だ。半年しか文輝は華軍のことを知らない。それでも、次兄にも似た雰囲気を持つ華軍のことを文輝は親しく思っていた。読替など律令の定めた尺度の一つで、個人主義的な思想を持っている戴家においては特別な意味を持っていない。だから文輝は素直に先達として華軍を敬い、通信士として信頼し、そして年の離れた友のように親しんできた。
 会って半日。言葉を交わした時間だけで言えば四半刻にすら満たない。
 たったそれだけの志峰に文輝の何がわかるのだと反発を覚える。
 その気持ちが顔に出ていたのだろう。志峰はいっそう苦々しく笑いながら言う。

「小戴殿、多分、あなたより私の方が陶華軍の心情を理解しています」

 苦笑を形作る唇から断定の言葉が聞こえる。文輝はその言葉に思わず耳を疑ったが、三歩駆けるうちにその意味するところへ辿り着いた。

「志峰殿が地方出身で、読替で、今は国官の通信士だから、ですか?」
「あなたにわかりやすい言葉で表すのならそうなのでしょう」
「納得出来ません。志峰殿は華軍殿にお会いになったことはないはずです。会ったこともない相手の心情が理解出来る、などというのはあり得ない、と俺は思います」

 生まれや育ち、位階や左右の環の別。箇条書きで事実を列挙すれば華軍と志峰は文輝よりもずっと近い存在同士だ。それはわかっている。それでも、志峰が華軍に会ったことは一度もないだろう。その相手の心情がわかる、などというのは幾らなんでも度を過ぎた発言だ、と文輝は判じた。
 それをそのまま伝えると志峰が静かに反論する。

「それはあなたが九品だから言えるのです。無官(ぶかん)と一般的な貴族、そして九品三公(さんこう)の間には決して越えられないほど大きな隔たりがあることをあなたはまだご存じではない」

 国を白帝(はくてい)から預かる国主。その血族である三公。そして貴族の中でも特別な地位を保証された九品。
 三男に生まれた文輝は九品の家を継ぐ権利など殆どないに等しいが、それでも九品であることには何ら変わりない。初科の頃からそれはずっと知っている。九品だと言うだけで敬遠される。その不条理をいつか覆したいと思って文輝は他人から見れば無意味にも等しい努力を続けてきた。家を継ぐ晶矢は不条理を黙殺することを選んだ。
 その、選択が出来ることすら九品に生まれたゆえだと切り捨てられて文輝は閉口する。
 知っている。九品はこの国において特別な貴族でとても豊かだ。諸貴族とは決して同等に語られることはないし、まして無官の民たちとは比べられすらしない。人口で言えば一割どころか五分にも満たない「特別な」側の出自だと断言される。
 志峰のその言葉が、文輝の中に今一度不条理を刻みつけた。

「その言い方は卑怯だ、と俺は思います」
「私もそう思っていますが、こうでも言わなければあなたには伝わらないのではありませんか?」

 そうかもしれない。志峰が一言の元に切り捨てた文輝の感傷には意味などないのかもしれない。文輝は華軍を知ったつもりでいたが、華軍も同じ思いだったかどうかすら定かではないことを突き付けられて文輝は返す言葉を失った。奥歯を強く噛み締める。白帝廟の白壁がようやく見えた。入口まではもう少し距離があるが、そこに辿り着くまでに志峰への反論が浮かぶとも思えず、文輝はまた不甲斐なさを一人抱え込む。
 その、文輝の独りよがりな我慢を晶矢が鋭く見抜いた。
 文輝の隣で大きな溜め息を零したかと思えば半身を捻り、最後尾の志峰に向けて言い放つ。

「志峰殿、それは些か首夏を軽んじている。貴官が思うほどそれは愚昧ではない」
「では阿程殿、あなたにお尋ねします。陶華軍が国官という地位を棄て、通信士であるという誇りを穢してまで一体何を得ようとしているのか、あなたには理解出来るのですか?」
「わたしはそこの坊ちゃんではないから、何か事情があるのだ、とは言わん」
「では何とお答えになるのです」

 文輝の代わりに志峰に反論した晶矢が力強い声で言った。
 白帝廟の門柱が三人の視界に映る。一つ目の廟までもう少しだ。

「その答えは陶華軍本人に訊けばいいだろう」

 それに、と晶矢が続ける。

「貴官の信念が揺らいだ、という不安を八つ当たりでわたしたちに押し付けるのは一人の国官として恥ずべき行為だ、とは思わないのか?」

 その問いの形をした断定を受けた志峰は勿論だが、文輝も瞠目した。
 志峰も文輝も自らの理想を押し付け合うことに必死でお互いの気持ちを理解しようとはしなかった。二人とも不安に押しつぶされそうだった。陶華軍にあらゆる意味で思い入れのない晶矢だから言える。その事実の指摘に志峰はばつの悪そうな顔をして「ここに陶華軍がいることを祈りましょう」と言って残りの距離を疾駆する。未だ戸惑いから抜け出せない文輝の肩を叩いて晶矢が先に白帝廟の門柱をくぐった。
 右尚書の東隣に建立された白帝廟は中城の中では小さい部類に入る。
 四方を白壁で囲まれ、入り口は東西の二か所しかない。文輝たちは西側の入り口から中に入った。正面に石組みの廟が三階建てでそびえ立つ。白帝廟は大体、西――白帝の守護する方角を向いているのが普通で、この廟もそうなっていた。三階建ての廟の吹き抜けになった部分に見上げるほどの高さの石像が立っている。白帝が顕現した姿だとされるが、廟によって少しずつ異なるのが一般的だ。中城にある廟だけでもまるで同じ姿をしているものは一つもない。足もとに控える聖獣は虎であることが多いが、狼であったり、鹿であったりもする。基本的に四足(よつあし)のけものであれば違いは問題視されず、その地域の伝承の方が重んじられた。
 その白帝像の周囲を取り囲むように回廊が作られ、外壁に沿って二十四の神仙の像が配置されている。白帝の直参であり、皆、白(はく)姓を持つ。西白国に十二ある州では、一州につき二柱が土着の神として信仰されていた。その由来から、地方の白帝廟では白帝像を含め三体が配置されるのが一般的で、二十四が揃うのは岐崔だけだ。
 夕暮れ時の白帝廟を訪うものは殆どおらず、中はしんとしている。
 文輝たちの背丈より高い白壁の向こうに夕陽を見る為には廟の三階に上らなければならない。正面に屹立する白帝像を横目に石造りの階段を駆け上る。二階の灯かり取りの窓からは白が強く差し込んでいたから華軍がこの廟にいるのではないかと期待する。
 だが、その期待は三階で否定された。
 この廟は白が強すぎて、朱が見えないのだ。

「王陵が低すぎるんだ」

 中城の西側に造られた王陵は二つの頂を持っている。一つは歴代の国主のもの、もう一つは国主の正妃のもので、峰と峰との間には谷間があった。この白帝廟は丁度その谷間から夕陽が見える。白光(びゃっこう)を遮る峰が低い為、白ばかりが見えて朱が退色している。ここではない、と三人は判じ、急いで階段を再び駆け下りる。南側の頂の影が映り込んだ中城の中に立ち上る橙色の煙が見えた。戸部(こぶ)戸籍班(こせきはん)の火災はまだ続いている。

「急ごう」
「ああ」

 志峰が四半刻の定時報告と結果報告で紫の鳥を飛ばす。それを見送って三人は一つ目の白帝廟を後にした。
 二つ目の白帝廟は東の外れで、付近は兵部や工部の厩になっている。一つ目の白帝廟と比べるとかなり大きく、廟の他にも堂が幾つか配されていた。廟の前には広場があり、入り口は南北と西の三か所ある。神話上、白帝が四位の神とされる所以から四重の塔があった。塔があるのは右官府ではこの一つだけで、あとは岐崔全体でも左官府に一つと城下に一つの三か所しかない。
 その、規模の大きな白帝廟に辿り着くまでに四半刻を要し、白壁が見えた時点で志峰が報告の鳥を飛ばした。それと行き違いで御史台の大夫からの鳥が飛来し、左官府の二つのうち、こちらも一つ目では陶華軍の発見に至らなかったと記してあった。戸籍班の書庫は既に三つが全焼し、現在は五つ目まで類焼しており、未だ火の手からは遠い書庫の戸籍簿を退避させているとの報告がある。その報告を受けた晶矢が悔しげに唇を噛み締めた。
 幾人もの官吏の信念を揺るがし、不安を煽り、国体を損なわせている華軍を「説得」して穏便に解決しようとしている文輝は甘いのではないか。不意にそんなことを思った。思うと同時に文輝は遅ればせながら気付いた。
 晶矢も棕若(しゅじゃく)も大仙(たいぜん)も進慶(しんけい)も志峰も。皆、その文輝の甘さにとうに気付いている。気付いていなかったのは文輝一人だ。
 華軍に会って文輝は何を言うつもりでいたのだろう。
 話を聞けばただの行き違いで済むと思っていた。説得すれば応じてくれると思っていた。
 しかし、もうそんな次元はとうに終わっていた。
 白壁の切れ目に門柱が見える。そこをくぐるのが急に怖くなって、気付けば足が止まっていた。先頭の文輝が止まったことで、晶矢、続けて志峰も足を止めざるを得なくなる。晶矢が訝しげに文輝の名を呼んだ。

「首夏」

 急いでいるのに何をしている、と言外にある。今更気持ちが揺らいだとは口が裂けても言えるはずがない。文輝の感傷と理想論に付き合って皆ここまで来た。それが解決に一番近いと信じたから皆乗った。その信頼を裏切ることは出来ない、と思う。それでも、どうしても怖い。その気持ちは何度拭っても消えてくれなかった。

「志峰殿、一つだけお聞きしてもよろしいですか」

 堪えきれず問う。志峰の肩に紫の小鳥が舞い降りるが彼はそれを開封することなく、文輝の問いと対峙してくれた。

「何でしょう」
「志峰殿はなにゆえ通信士になられたのですか」
「陶華軍と似たような理由でしょう」

 罪科の読替はより重い罪を犯したとき以外で変わることがない。一生を罪科に寄り添って生きていくことを国に強要されている。三親等以内の親族にまで類が及ぶこの制度を作った過去の立法官たちは罪の重さゆえに犯罪への抑止力になると考えていたのだろうが、官吏の腐敗が進んでいる今となっては不必要に人々の暮らしを圧迫するだけになっている。
 「まじない」の才を持つものは読替による底辺の生活から抜け出す為に士官するが、全てのものが救い上げられるわけではない。そして士官が叶っても当然、不条理な差別から逃げられるわけではなかった。

「国もとではやはり肩身が狭かったのですか」

 ぽつり、漏らす。華軍は文輝に愚痴めいたことは一つも言わなかったが、彼は彼なりの苦しみを背負っていたのだろう。そのことに考えが至らず、一方的に親しくしていると思っていた。九品の傲慢と言われれば否定は出来ない。
 夕暮れの赤に照らされた志峰が困った顔で肩を竦める。そこに華軍への同情と嫌悪と憐憫が相反することなく同居しているのを見て、文輝は彼もまた答えを探しかねているのだということを知った。

「おや。一つ、ではなかったのですか。しかしまぁ、答えましょうか。国府に参ってよりもそうでしたな」
「俺は通信士とは人より秀でた存在だと思っていました」
「九品三公もそのようなものでしょう」

 あなたも生まれながらにして人より秀で、ただびととは隔された扱いを受けてこられたはずです。志峰が言う。文輝はその言葉に今までの十七年間しかない人生を振り返った。華軍や志峰ほど秀でてはいないが、思い当たることがある。

「人の中にありながらなお孤独である、という感覚が志峰殿にもおありですか」
「血族の中にありながらなお孤独である、という点では違いましょう」
「華軍殿もそのようにお思いだったのでしょうか」
「通信士には横のつながりすらありませんからな。上官の信を受けられなんだら心が死にましょう」

 文輝は九品だが、三男で二人の兄がいたからそれなりに上手く世を渡る術を身に着けることが出来た。晶矢の方が風当たりが強い。そう思うことで塞ぎ込む気持ちを抑えられたこともある。文輝は世間という人の中にありながらもなお孤独だったが、決して孤立無援だったわけではない。
 志峰や華軍にはその救いの場がなかった。それでも、彼らは上官という寄る辺を得て生きている。華軍の上官は劉(りゅう)校尉(こうい)で、今回の動乱に深く関わっているという嫌疑がかかっていた。華軍が迷わなかったとは思わない。
 でなければ、彼が文輝の下へ折よく伝頼鳥(てんらいちょう)を飛ばすことはしなかったはずだ。華軍は迷っている。自分自身に課せられた命題の証明の過程で心が揺れている。

「志峰殿、それでもあなたは華軍殿を憐れむなと仰るのですね?」

 志峰もまた彼に課された命題と戦っている。その過程が今だ。

「陶華軍を放免すればそれは通信士全体に関わります。というのは建前ですな。私は私の地位が惜しいのです。矜持もあります。その職務を放棄した陶華軍に憤ってもおります。ですから、律を破ったものが許されることが許せません」
「志峰殿が逆のお立場ならどうされましたか」
「それは考えるだけ詮のないことでございましょうな」

 私は今ここにおります。それだけが真理ではございませんか?
 胸中の迷いも、周囲への不信もある。それでも、志峰は岐崔の安寧を選んだ。それを乱すものは捕え、処罰する。華軍に同情しないのではない。彼の心中は痛いほどよくわかっているだろう。そのうえで彼は「通信士」の立場を重んじた。
 だから。

「小戴殿、お心は定まりましたか? もしまだでも私たちは行かねばなりません」
「首夏、ここにも陶華軍はいないかもしれない。それでもわたしは中へ向かう。おまえがその手で陶華軍を捕えるのと孫翁にその役目を託すのと、どちらがおまえを納得させる結論なのか、それは知らん。知らんがおまえは決めたのではなかったのか? 同僚を――陶華軍を信じているのはおまえ一人だ。今更揺らぐならさっさと御史台へ帰ってしまえ」

 わかっている。華軍には何らかの落ち度がある。その程度がどれぐらいかも、動機も全部華軍に会わなければわからない。
 それに、と思う。
 大仙の前では強がって見せたが城下にある戴の屋敷に火が放たれることに対する懸念は残っている。母はきっとうまく采配するだろう。次兄もいる。人さえ残れば屋敷など何度でも復興出来る。信じていないのではない。それでも、失われるものは少ない方がいい。
 だから。

「お手間を取らせました。参りましょう、志峰殿」

 人を信じるということがこれほど難しいことだとは今まで思ってもみなかった。
 今までの文輝は人を信じているという体裁を取り繕い、奇跡的に上手く生きてきただけだ。本当に人を信じたことなどないのだろう。
 人とは利己的なものだ。かつて華軍が文輝にそう言った。わかっているつもりだった。人は自分の為だけにしか生きられない。どんな慈善も慈愛も結局は自らの満足のうえに成り立っている。
 それを今、痛いほど思い知った。
 それでも、文輝は今も華軍を信じたいと思っている。
 この思いが揺らがないのなら、それでいい。
 神の天啓ではない。国主の勅命でもない。上官の指示でもなければ、同輩の提案でもない。この世界に一人しかいない文輝自身が決めたことだ。

「首夏、わたしはおまえの判断を信じているが、万が一の場合には口も手も挟むぞ。覚悟しておけ」

 白壁に沿って再び駆け出した隣で晶矢が言う。彼女の右手がそっと腰に佩いた短剣に添えられる。文輝は知っている。その短剣が程家に代々伝わる宝剣で実戦には向いていないことも、彼女がその鞘を抜いたことがないことも。初科の頃に彼女が一度だけ、その宝剣を振りかざし、目に見えない権力という力を行使しようとしたことを今も悔いていることも文輝だけは知っている。
 晶矢が殺傷能力のないその短剣で武力行使をしようとしている、と聞けば彼女の命そのものを懸けて戦うと言っているのと大差ない。代々、程(てい)家当主の得物は長弓だと決まっている。彼女には近接戦闘は出来ない。
 知っている。文輝は色んなことを知っているのを少しずつ思い出してきた。
 その思いが、不意に文輝の胸の内を温かくさせる。
 別離の覚悟は出来ていない。覚悟もなく戦うのは愚策だと知っている。
 だから文輝は苦笑いを浮かべた。

「善処するよ」
「その顔だ」
「うん?」
「おまえはそういう顔の方が似合っている。小難しいことを考えるのは孫翁にでも任せておけ。十七のわたしたちに背負えるものなどないんだ」
「っていうのを背負ってるお前には言われたくない」
「抜かせ」

 軽口を交わせるぐらいには文輝にも晶矢にも冷静さが戻っていた。
 華軍の答えを聞けばもう一度心は揺らぐだろう。
 それでも。

「陶華軍はもう少し早くあなたに出会うべきでしたな」
「そうかもしれません。でも、出会ったのなら今からでも間に合う、とも思いませんか?」

 長い長い白壁の切れ目がやっと姿を現す。門柱が見え、三人は足を速めた。
 志峰の返答を聞く間もなく、西門から廟の中へと飛び込む。整然と敷き詰められた石畳に赤が反射している。二十四の像が見守る回廊の内側、本殿の階段に人影が一つ。近寄るまでもない。右服を着たその背中には確かに見覚えがある。
 その名を呼ぶより先に声が聞こえた。

「小戴、遅かったな」

 もう来ないのかと思っていた。声が続き、文輝は鼓動が早まるのを感じる。耳まで熱くなりながら、文輝は名を叫ぶ。

「華軍殿!」

 その続きは既に言葉にならない。どうして、だとかどういうつもりで、だとか頭の中で言葉が溢れて何一つ音にはならなかった。憤りと安堵と疑問と不安とでごちゃまぜになった文輝の後ろで志峰が紫の鳥を放つ。その動きも鳥の軌道も見えないだろうに、華軍の背中がゆっくりと振り返り「俺を捕えても無駄だ。御史台にそう伝えておくといい」と平坦に言った。無実だとは言わない。彼の身にかかった嫌疑を晴らすこともしない。せめて弁明をするのならば聞きたかった。

「華軍殿!」

 もう一度叫ぶ。憤りで語調がきつくなる。それでも、華軍は眉一つ動かさず白帝像の足もとで悠然と立っていた。

「小戴、俺はお前に言ったな。『お前を信じろ』と」

 左尚書で窮地に立っていた文輝と晶矢を救ったのは華軍の鳥だ。あのとき、華軍が別の文言を鳥に記していれば結果はどうなっていたのかわからない。
 文輝を救った鳥の主を疑いたくはない。
 国を守る右官の見習いとしてこれほどまでに甘えた言動はないだろう。
 それでも、文輝は華軍を信じたかった。
 そのことを伝えたくて、ようやく言葉は音になる。

「信じているからここに来ました。俺の知っているあなたは何の理由もなく国を売るような方ではない」
「では理由があれば国を売る男だと思われているのだな」
「華軍殿! 俺は言葉遊びをしに来たのではありません」

 あなたが持っている真実を聞きに来たのだ、とは言えず口を噤む。
 華軍が背に負った白帝像を振り返る。三十歩以上の距離があるのに、文輝の目には彼が何かに傷つき憂いているのがわかった。傷つけられたのはこちらの方だ、という文句が湧く。それでも、文輝は口を噤んだまま華軍が話を始めるのを待った。
 視線すら交わらない。華軍が白帝像から目を離すまでの時間が永遠にも感じられる。
 文輝の背中の向こうで晶矢が焦れ、一歩前に踏み出す。彼女の長靴と石畳が擦れ、耳障りな音を立てたのが最後のきっかけとなり、華軍の眼差しが文輝を射た。

「小戴、この中城には一体どれだけの官吏がいるのか、お前は知っているか」
「位階の上下にこだわらなければ約三十五万」
「その中でここに来たのはお前たち三人だけだ」

 三十五万。見習いから現役を引退して指南役として務めているものまで含めるとそのぐらいになる、と文輝たちは初科で学ぶ。退庁を禁じる命が出ているから、三十五万の官吏は今、この中城に留まっていることになるが、何が起きているのかを正確に把握しているものは限られていた。
 華軍が言わんとしていることが上手く理解出来ない。
 思考してから相手に問え、と進慶に言われたのがまた思い出される。
 こんなときにまで悠長にそれを守る必要があるのか、と自問しながら文輝は思考を続ける。華軍は何を待っていたのだろう。その答えは既に知っている気がした。

「もっと早く、俺が来れば何かが変わりましたか」
「さてな。俺はただ言われた通りの役を演じただけだ」

 憂いに満ちた顔で華軍が瞑目する。その瞼の裏に何が映っていて、彼は何の為にここにいるのか。それを知る権利を与えられたのは文輝一人なのだと直感した。華軍の視界には晶矢も志峰も映っていない。
 ならば文輝も敢えて二人のことを忘れるように努めなければ同じ場には立てないだろう。
 警邏隊(けいらたい)戦務班(せんむはん)の役所で振る舞うように、文輝は華軍と対峙した。

「戦務長(せんむちょう)は何をなさるおつもりなのですか」
「それが知りたいのなら俺を殺してこれを奪い取るといい」

 華軍が懐から椿色の小鳥を取り出す。それは華軍が暗号化した伝頼鳥であることは疑う必要すらない。ちらと小鳥を見せた華軍は再び懐深くに仕舞う。殺して奪えというのは比喩ではないだろう。それだけの覚悟があるのに、文輝の目に華軍は疲弊しきっているようにしか見えなかった。何に疲れているのかわからなかったが、この半日の出来ごとを言っているのではないと直感する。多分、彼はもうずっと前から何かに疲れ始めていたのかもしれない。
 もし気付けていたら、と少しだけ思ってそれは文輝の自惚れだと知る。
 複雑な胸中が表情に出ていたのか、華軍は困ったように笑った。その表情の崩し方があまりにも文輝の知っている「いつもの華軍」で文輝はますます胸の奥が痛むのを感じる。

「小戴、そんな顔をするな。別にお前の所為じゃない」

 強いて言うなら運がなかった。ただそれだけのことだ。
 華軍が言っているのが生まれなのか、配属なのかはわからない。わからないことばかりで、文輝は自身の存在の小ささを思い知らされる。美しく整った岐崔。それが全てだと思っていた。地方は荒れている、と聞いてもどうせ岐崔より少しばかり煩雑なだけだと思っていた。その認識の甘さが文輝の胸中で後悔を生む。
 もしもう少し早く生まれていたら。
 もしもっと見識が広かったら。
 もしもっと力があったら。
 もしもう少し一般的な生まれだったら。
 叶わない仮定が幾つも胸に湧き上がる。
 それでも。
 文輝は知っている。
 仮定がどれか一つでも現実のものだったら、文輝は華軍と巡り会わなかった。
 だから悔いても仕方がない。わかっている。わかっているが、感情は論理では整わない。胸に広がる鈍痛を堪えるように唇を噛み締めた。「小戴」と文輝の名を呼ぶ穏やかな声が聞こえる。文輝は凪いだ水面のような華軍の呼びかけにはっとして視線を上げた。華軍が階段を二つ降り、文輝の方へ向けて歩いてくる。声色と相反して彼の双眸には敵意が宿っていた。その眼光の鋭さに文輝は生唾を呑みこむ。人からこれほどまでに強い悪意を向けられたのは生まれて初めてのことで、どうすればいいのかがわからない。反射的に一歩後ずさる。長靴が石畳の上を擦って耳障りな音を立てた。

「小戴、お前も気付いているだろう? 俺は――俺たちはもう限界だ。お前が俺を殺さないのなら、俺たちはお前を殺してでも先へ進む」

 そう決めた。もう決めてしまった。先がどこなのかはわからない。それでも、華軍の中ではもう覆すことの出来ない結論が出ている。その結論に至る道を遮るのであれば文輝すら排除する、と華軍の敵意が示す。
 文輝は生まれながらにして武官の道を歩いている。それは戦闘という暴力を携える道だと知っていた。誰かを守る為に何かを傷つける道だとも知っている。今、文輝が躊躇うことは許されていない。それも知っているが文輝の感情が否定する。

「華軍殿、今ならまだ――」

 過ちを取り戻せる。留まるなら今しかない。
 文輝の感情がその言葉を口にしようとさせた。
 その刹那、文輝の頬に鋭い痛みが走る。熱い液体が頬を伝い、顎から滴り落ちる。朱に染まる白帝廟の石畳を確認しなくてもわかる。目の前にいたはずの華軍の姿を探さなくてもわかる。これは血だ。文輝は今、三十歩の距離を一瞬で詰められた。晶矢が文輝の名を短く呼ぶのが遠くに聞こえる。呼吸すら聞こえそうな距離で、剣を構えた華軍が最後の言葉を発した。

「小戴、覚悟はいいな」

 戦慄が背筋を駆け上がる。
 敵意から殺意に変わった気配が次の瞬間、再び文輝から離れる。文輝は無意識的に直刀の柄に手をかけた。次の斬撃を本能的に察して直刀を鞘から半分抜く。耳障りな金属音が響くと同時に右手に衝撃が走る。華軍の二撃だ。何とか堪え、剣を押し返す。華軍の姿が文輝の間合いの外に移る。文輝の背中の方で晶矢と志峰がそれぞれの得物を構える気配がして、反射的に文輝は叫んでいた。

「暮春、手を出すな!」

 勝機があったのではない。
 晶矢の手を借りなければ劣勢だということはわかっている。文輝が知っているのは模擬戦だけで、その両手は綺麗なままだ。地方官を経てときに最前線で武官として戦ってきた華軍とは経験が違う。
 わかっている。
 自らの感傷の為にいたずらにときを過ごすべきではない。
 椿色の小鳥に全てが綴られているのなら、一刻も早くそれを手に入れ、岐崔の防衛を根本的に立て直さなければならない。そうでなければ、文輝の生家もまた災いに巻き込まれる。
 わかっていたが、文輝を殺してでも先へ進むと言った華軍の声音に含まれていた切なさが耳に残る。それを些事と黙殺出来るほど文輝の精神は成熟していなかった。

「暮春、俺に戦わせてほしい」

 間合いの外で剣を構える華軍を注視したまま文輝は晶矢に語り掛けた。
 晶矢がはっきりと激怒する。その怒りもまた当然のものだが、文輝の心は動かなかった。

「馬鹿かおまえは! 初科の成績に自惚れているのだろうが、そんな場合では――」
「暮春、頼む」

 程晶矢、一生の頼みだ。俺に戦わせてほしい。
 出来るだけ冷静にそう告げる。名で呼ばれた晶矢が返す言葉に詰まって、それでもなお憤っている気配が伝わる。それでも、文輝は知っている。晶矢が文輝の心からの頼みを断るような薄情ものではないということを。

「死なないと誓えるか」
「暮春?」
「必ず生きると誓え! でなければわたしも戦う、いいな!」
「誓う。誓おう。必ず俺は生きる」

 怒っているのに今にも泣きそうな声だと思った。その声に背中を押されて文輝は華軍の間合いへ一歩、踏み入れる。空気を震わすほどの殺意を浴びて臆していた気持ちは今も変わらない。それでも、誓いを立てたからか先ほどよりも体に力が満ちている。下手をすれば文輝は切り捨てられて終わる。よくても相討ちが精々だ。
 それでも。

「華軍殿、刃がなければ語れないのならお相手する」
「精々死なぬように努めるのだな」

 華軍の敵意と対峙すると宣言をした。悪口が聞こえて彼の姿がまた消える。
 華軍の得手は高い瞬発力を駆使した短期戦だ。まずはこの斬撃の速度に目を慣らさなければ話にならない。防戦一方の文輝の後ろには晶矢と志峰がいる。志峰は大夫のもとへ鳥を飛ばした。半刻もすれば御史台から増援が駆けつけるだろう。
 それまでに、文輝は自らの納得する答えを華軍から引き出せるだろうか。
 不安は消えない。それでも、文輝は華軍と対峙すると決めた。
 右腕で受ける重みと必死に戦いながら、夕闇の中文輝の戦いが始まった。