「如風伝」第二部 十話

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 陶華軍(とう・かぐん)だったもの――赤虎(せっこ)が戴文輝(たい・ぶんき)に貸し与えたのは眼だ。怪異の異能には幾つかの種類がある。「視える」か「聴こえる」が一番多い手合いだがその内訳は幾通りもの分類があり、それらを詳細に証明するものがいない以上、固有の能力であると判じられた。
 赤虎の眼は白帝(はくてい)の加護を受けた国主程の強制力は持たないが、それでも真実を見通す。
 伝頼鳥(てんらいちょう)の飛翔する軌跡を追うのはそれほど困難ではなかった。濃き紅の光を灯した鳥の尾を追って夜の帳の中、文輝は駆けに駆けた。人の脚で追いつける距離には限界があり、「信天翁(あほうどり)」が気紛れに交信をやめればこの作戦が破綻するのは明白だった。
 華軍が何度目かになる「武官諸志」の前文を諳んじると同時に紅の鳥が舞い上がる。中身は柯子公(か・しこう)が考えているから、巧妙な心理戦が繰り広げられているのだろうが文輝にはその仔細を知ることがない。ただ、赤虎の眼を使って必死に紅く灯る光を追った。住居の壁をよじ登って、屋根の上を駆けて、何度も何度もかすり傷を作って、それでも文輝は必死に追った。

「子公! もう一本書け!」

 沢陽口(たくようこう)の城郭(まち)の中心部にはそこそこの高層建築物がある。七階か八階。手をかけられる場所があれば、文輝の身体能力で登ることは決して不可能ではないが、今、追っていた紅は建築物の三階付近の壁を透過して消えた。その中の室に「信天翁」がいるのか、この建物の更に向こうになるのかはまだ判然としない。それでも、光は消えた。待っていても答えはやって来ない。「信天翁」からの返信が来るのを待たず、文輝は後続の文を飛ばすことを選んだ。体力のない子公が彼の脚で文輝の移動に付いてこられる道理もなく、結局は華軍が人と虎との姿を行き来して子公を運んでいる。赤虎の背から降りた子公が限界を訴えかけるのを無視して、文輝は指示した。赤虎が姿を変えて人の形を取る。文章を考えるのは子公の役割だったが、彼の「普通の両目」では暗闇の中、書面にすることは出来ない。畢竟、子公が諳んじ華軍が清書することでどうにかこの作戦は成り立っていた。

「――急き、すぎだ、この大馬鹿ものめ」
「鞍がない生きものに騎乗しただけで音を上げるようなやつは俺の軍師には不向きだぞ」
「はっ。煽っても、何も、出さん」

 返答が来るまで一息吐かせろ。言って子公は完全に沈黙を通した。文輝の才では文面を考えることが出来ない。子公の頭脳と「信天翁」に対する知識とが必要だった。どれだけ文輝が急いても子公が整わないことには何の展望も期待出来ない。自らの弱みを知って、焦れて、それでも文輝は諦観を受け入れなかった。嘆息して、建築物を見上げる。明かりが消えた三階の石壁までどうやって登ろうか。そんなことを着実に計算していた。
 その、石壁を透過した白の灯かりが飛翔するのを網膜に照射した瞬間、文輝の心中はさざ波立つ。いる。この向こうに「信天翁」がいる。そうでなければ返答の飛翔経路が送ったものとまるで同じになる理由がない。
 一足飛びでその事実を直感した文輝は赤虎の眼を最大限利用して暗闇の中、石壁の凹凸を器用に掴みながら只管よじ登った。爪が欠けることも、軍靴が汚れることももう頭の中にない。
 ただ、この壁の向こうにいる「信天翁」に会いさえすれば問題は全て解決する。まるでそんな妄想に囚われて、文輝は必死に壁を登った。
 三階の高さまで登ると、右手側――東向きの面に小さいが窓があることがわかる。そこから入るしかない。瞬間的に判断して文輝は今度は水平に身体を移動させた。少しずつ近づくと橙色の灯かりが漏れ出しているのが見える。窓は沢陽口でよく見る、格子になっているらしく所どころ陰になっているのも見えた。この窓から中に入ることは出来ない。逡巡して、それでも文輝は決めた。格子を蹴り抜いて中に入ろう、と。
 隣の建物の屋根にどうにか這って上がってきた子公が文輝の意図を鋭く見抜く。そして彼は絶叫した。

「文輝! 貴様、何を考えている!」
「そうだぞ、小戴(しょうたい)! 器物破損はこの城郭ではそれなりに――」

 重い罪になる。華軍の忠告を最後まで聞かずに、文輝は窓の枠にぶら下がると両手指に神経を集中させる。そして、反動を付けて全身の力で格子を蹴り破った。溜息と絶句が文輝の耳に届くより先に、文輝は窓の中に飛び込んでいる。両足の裏が鈍く痛むが、それを無視した。軍靴でよかった。そんなことを考えながら、文輝は室内にいるだろう「信天翁」の姿を求める。

「『信天翁』殿――」

 貴殿に尋ねたいことがある。言おうとして、竹材の破片が飛び散った室内で怒りに柳眉を釣りあげている妙齢の女性の姿を見とめて、息を飲む。妙齢の女性の居室に悪漢のような手口で入り込んだこと以上に、女性の持つただならない雰囲気に圧倒されていた。