「如風伝」第二部 十話

「あの坊の上官と言うから、もう少しましな面構えを期待していたのに何じゃその間の抜けた顔は。わしに会いたかったのであろ? もっと喜ばんか」
「貴殿が――?」
「そうよ。ぬしの切望した『信天翁』じゃ」
「失礼だが、御年幾つになられる? とても――才子の総元締めをされているとは思えん」
「ああ。それか。わしは『人の心を映す姿』をしておるようじゃな。ぬしは随分と別嬪を期待しておると見えるな。『小戴』殿」

 わしはもう男だの女だの若いだの老いだのという概念からは逸脱したのよ。
 しれっとそう言った「信天翁」の言葉に虚飾はなく、彼女が真にそう告げているのを感じた。この雰囲気は二十年や三十年の生ではとても表せられるものではない。圧倒的な存在感。人の心の奥底を見透かすような鋭い双眸。女性として十分に若く美しいのに、同時に老獪さを感じさせる。文輝の闖入に対して動じることもなく、試すようにこちらを見ている。それだけでも、ただの妙齢の女性ではないのは明白だった。

「それで? かような無粋を働いてまでわしに会うのを急いておったようじゃが、残念なことにわしはその願いを叶えてやるつもりがない。疾く居ね。でなくば、力づくでも構わんぞ」

 言うなり「信天翁」の纏う雰囲気が敵意を帯びる。この女性――のように見える才子は心の底から文輝の退室を願っている。それとわかって、すごすごと引き下がれるぐらいならこんな手荒な方法で「信天翁」の居場所を突き止めたりはしなかった。
 だから。文輝は彼女の言葉に食い下がるしかない。
 それ以外の解など端からなかった。

「待ってくれ! 貴殿は失せた二十四白(にじゅうしはく)のことをご存じなのだろう? 沢陽口の城郭にはその天仙が――」
「必要ならばもっと敬わんか。都合のいいことばかりを抜かしおって。わしはあれをこれ以上苦しめるぐらいならばこの城郭ごと土砂の中に沈んでも構わんと思うておる」

 憤怒。そうとしか表現出来ない怒りを帯びて「信天翁」が低く唸る。女性の声だ。少し掠れてはいるが女性の声だ。なのに、文輝の身体は硬直する。上官に叱責されるときより一層の恐怖を体感して、文輝は怖じた。

「しかし――」
「理屈などどうでもいいのよ。ぬしはあれに労苦を強いる。わしはあれの心情を優先する。交わることのない水かけ論よ。理解出来ておらんようじゃから、もう一度だけ言うてやろう。疾く居ね。そっ首叩き折られて人生を失う前に岐崔(ぎさい)へ泣き帰れ」

 交わることのない水掛け論。そんなことは言われるまでもなくその身を以って文輝も実感し始めている。流石は才子を取り纏めているだけの人物だ。言葉の一つひとつの重みが違う。わかっている。文輝の貧相な語彙力や交渉力ではこの才子を口説き落とすことは出来ない。愚直だけが武器で、心理戦など到底無茶な話だと理解している。
 それでも。そうだとしても、一つの感情を優先する為にこの城郭の数多の命を見捨てるという選択は武官として容れるわけにはいかない。国官としてより多くの命を救うことが文輝の務めであり、使命だ。
 もしも、この首が胴と泣き別れることがあっても、文輝は自らの領分を唾棄することは出来ない。そうしないという誓いを立てて武官としての人生を始めた。今もそのときの気持ちに何ら変わりはない。

「それは、出来ない」
「何じゃ? ぬしも死にたくはなかろ、と言うておる。沢陽口が沈んだところで岐崔にはまだ二つ津(みなと)が残るではないか。新しい津を開くのも工部(こうぶ)の采配があれば叶うじゃろう。それがぬしら『国官』の特権じゃろうが」
「わかっている。貴殿が何の理由で天仙を逃したいと思っているのか、俺にはわからない。この城郭の全ての命より天仙の感情を優先したいという貴殿の感情も理解出来ない。それでも――いや『だからこそ』と言おう。俺と貴殿はもっとお互いの望みについて理解すべきだと俺は思う」

 水かけ論の平行線と決めるには性急だ。どちらも道を譲れない。譲ろうともしない。分かり合うことを放棄した道の果てでだけ平行線の現実が存在する。
 分かり合う余地がなくても。「信天翁」が心底理解を拒んでも、文輝はまだ交渉の卓にすらついてない。その段階で全てを諦めるだなんていう選択を出来るほど文輝は人生に飽いていなかった。
 その青臭い正論を「信天翁」は鼻先で嗤う。

「詭弁じゃな。九品(きゅうほん)の坊ちゃんらしい綺麗ごとじゃ」
「それでも、貴殿にこの城郭の住人を巻き込んだ盛大な自殺劇を指揮する権利はない筈だ。そうじゃないのか?」

 忘却と失念の中に取り込まれた圧倒的多数の意見を無視して、その消却の中から取り残された一部のものが道を選ぶ権利はあるのか。それは正しいことなのか。「信天翁」の言うように天仙はそれを望んでいるのか。本当の本当にそうなのか。確かめないで前に進むことは出来ない。
 虚勢で胸を張って、自らの落ち度などないような顔をして正論を説くことしか出来ない。実利を伴っているわけでも徳に満ちているわけでもない。それでも、今の文輝に出来る精一杯で、この場所から退かないことだけが文輝の決意を表せるのだと直感していた。
 「信天翁」の眼差しが不意に緩む。慈しみと深い哀婉の色をして彼女の翡翠の双眸が閉じられて再び開く。
 その翡翠の向こうには藍色の闇が映っていた。