「如風伝」第二部 十話

「子公。明日から俺は少し別行動をするが気にするな。お前はいつも通りに暮らしてくれ」
「貴様、何に勘付いた」
「――お前には多分向かねえよ。『条件』が足りねえ」

 生まれ、育ち、風習の違い、身分。常識、技術、体力、忍耐。数えれば数えるほど数多の条件が横たわっているのに気付く。文輝が沢陽口の城郭に来たのもまた必然だったのだろう。白喜に呼ばれる。そうとしか言い表せない現状に文輝は苦い思いを抱いた。これが神の――白帝の采配だというのなら、文輝の敬愛すべき主神は文輝が思うよりずっと希薄な存在だ。二十四白を御するどころか、二十四白を庇護することすら叶わない。神代の終わり、という単語が脳裏をよぎった。
 文輝の立場は微妙な均衡の上にある。
 白帝の庇護を受けた国主の九人の臣下。その血脈に生まれながらにして死に戻った無秩序の存在。その文輝にしか成し得ないことがあるのなら。そうすることでこの国の民が救われるのなら。
 子公が言ったように自らを犠牲にして安寧を守る解を選ぶことに何の躊躇もない。
 それが、九品の役割だと幼い頃から教わり、信じてきた義務と権利だ。
 榛色に覚悟を灯して言う。子公は泣きそうな顔をして閉口する。王佐を自負し、自らのあるじを立てることについて何の疑問も抱かない子公にとって戦力外通告は彼の矜持を酷く傷付けるのだろう。何の役にも立たないから引っ込んでいろ。それと大差ない言葉で切り捨てて、それでも文輝は確信していた。文輝の巻き込まれた運命の糸の絡まりを子公の論理が解きほぐし、そして彼が文輝を救ってくれると信じている。
 だから。

「小戴、俺が同道してやることも出来るが?」
「華軍殿は子公の相手をしてください。最後にこいつの頭脳が答えを知ったら――そのときはご助力を願います」

 そんなやり取りをしていると「信天翁」は苦く笑ってこちらを見ていた。泣きそうだ。そんなことを束の間思う。思って、彼女の願いをまだ聞いていないことに気付く。

「『信天翁』殿。貴殿は白喜の感情を優先する、と言った」
「そうよ。わしは間違いなくそう言うた」

 白喜がどんな感情を抱いて忘却と失念を強いているのか。文輝は未だその答えを知らない。
 感情が数多交錯する「世間」において誰か一人だけの感情を特別扱いすればどうなるのかを知らないわけもない。それでも、文輝は知りたいと思った。白喜が何を思い、何を願い、何を疎んじ、何をしようとしているのか。その感情に寄り添って最大公約数の未来を選び取りたいと思う。そう、思ってしまった。

「俺が今からすることを貴殿は許容してくれるのだろう?」
「嘘も吐けぬくせに人の心を試すでないわ。その榛を信じろと言うのであろ? わしは人を見る目だけは確かじゃ。ぬしの賭けに乗るのは吝かではない、と答えおこう」
「『信天翁』殿。一つだけ、誓おう。俺は白喜がどのような相手でも、必ず誠実に対峙する。それだけしか、約束出来ないことが心残りだが、必ずそうすると誓おう」
「で、あるならばぬしらはもう居ね。わしも明日の準備というものがある。ぬしらも身体を休めよ。自愛出来ぬものに人を尊重することは出来ぬと相場は決まっておろう。そうじゃろ、坊」

 「信天翁」の翡翠が子公を射る。そこには幾ばくかの疲労と、落胆と、そしてほんの少し――本当に僅かだけだったが期待が込められていた。
 全てが終わったら。窓の格子を直しに来てもらう。それだけを伝えて「信天翁」は文輝たちを室から追い出した。
 沢陽口の城郭では雨が降らない。
 だから窓の格子がなくても困ることがない。困るのは白喜がその役割に戻り、雨が降るようになってからだ
。その暗喩に気付いて、文輝は喉の奥が締まるような苦しさを感じた。
 それでも。
 百の命を救う為に一の命を犠牲にする。それが国官の役割だとわかっているのに――十分にわかりすぎているのに、犠牲にした一と近しい誰かが悲しむことの痛みと今更になって対峙した自らの愚かさを呪った。
 誰もが救われる未来はない。万能の解決策はない。誰もの思うがままに振る舞って保たれる調和もない。
 文輝は人に苦しみを強いる存在であることを自ら望んでいた筈なのに、ありもしない理想の絵図を追っている。誰からも愛される存在でありたいと望むのなら武官など早々に退役するべきだ。わかっている。どれだけ正しくても、どれだけ綺麗ごとを並べても、切り捨てられた少数一部の怨嗟を身に受けるのもまた国官の務めだ。美しいだけの明日などない。国が在ることで生まれる苦しみがある。守るだけが国の意義ではなかった。
 だから。

「戦務長はそれに気付いておられたのですね」

 夜の闇の中に誰に宛てるでもなく呟いた言葉に返答は来ない。
 そのことに小さな安堵を覚えながら、文輝は暗い夜道を怪異の区画へ向けて歩き続けた。