「如風伝」第二部 十三話

   * * *

 蝉の声が聞こえる。昼の山林にあって不自然なほど蝉の声だけが際立って聞こえた。戴文輝(たい・ぶんき)の目の前で巨岩に腰かけた少女が無邪気に微笑む。その姿はどこをどう見てもただの少女なのに文輝の第六感がそれを強く否定した。首府・岐崔(ぎさい)でよく見る民服ではない、だとか、まるで数十年も過去の――例えば、史書の中で見るような格好をしている、だとかそういった次元ですらない。存在感が人のものではないのだ。鍛え抜かれた銀師(ぎんし)──国主の私兵だ──よりも威圧感があるものと出会ったことは今までにない。陶華軍(とう・かぐん)――赤虎(せっこ)の紅い双眸に射竦められたときよりも甚だ酷い。恐怖と畏怖で喉から心臓が飛び出すのではないかというほどの圧に文輝は息を呑んだ。
 それでも蝉の声だけが鮮明に聞こえる。

「どうしたの? 首夏(しゅか)、わたしにも名前をちょうだい?」
「――いや」

 西白国(さいはくこく)では古来、名を授ける権利があるのは父母だけだ。国主ですらその裁量を持たない。そのことを建前に回答を回避しようとした。文輝の迷いは最後まで言葉にならないどころか、別の圧力によって逃げ口上の大半を潰される。
 少女の翡翠の双眸が得体のしれない力に揺らめいて文輝を射た。それだけで息を吸うこともままならない。怪異――委哉(いさい)や華軍がどれだけ文輝に好意的だったのかを今更になってやっと知った。

「視えているんでしょ? 『それ』をわたしにくれるだけでいいの。ね? 簡単でしょう?」
「――」
「黙ってたのじゃわからないわ。ねえ、首夏。『わたしにも名前をちょうだい』」

 敵意──ではないと文輝は認識した。文輝を殺めたいと思ってる節は感じられない。害意もない。あるのだとすればそれは純然たる悪意だろう。人を──人間を見下して滅んでいく様を嬉々として見つめている。そんな感覚を抱いた。
 白喜(はくき)は終末を望んでいる。それだけは確かだ。自らの行為が何を生むかもわかっている。わかっていて彼女は逃避を選んだ。だから今ここで文輝の説得工作に応じてくれる可能性が限りなく低いこともわかる。それでも、その結末を受け入れれば沢陽口(たくようこう)が──この城郭(まち)は名実共に失われるだろう。それだけはどうやってでも回避しなければならない。強盗の真似事をした文輝に神器(じんぎ)を譲ってくれた刀匠の想いや、侮蔑を隠さない「信天翁(あほうどり)」の願いを預かってここにいる。何も為せなかった、で済まされる地点は通り過ぎているのだ。
 「信天翁」は白喜のことを理解しろと言った。敬え、とも彼女は言った。刀匠の翁は白喜を恨まないでほしい、と言った。縋るような声で彼は祈った。
 その根拠は未だ文輝の両眼に示されないが、柯子公(か・しこう)ならきっと間に合わせてくれるだろう。信じているから、文輝は自らが今すべきことを選ぶことが出来た。かつて榛色であった筈の双眸は紅の光を灯しているという。その両眼に二つの文字が浮かんでいた。おそらく、これが白喜と文輝の間の関係性を築くのだろう。お互いがお互いの命名権を掌握する。文字を読めば──名を与えれば、この国にあって最も原始的な関係が成り立つ。個と個の確立。その意味するところを理解していたが、文輝にはもう感情の好悪で選択をするだけの余裕はなかった。

「至蘭(しらん)」
「──いい名前、だわ」

 蘭に至るもの。蘭というのは生育が困難で美しい花を咲かせる為には限りないほどの手間を要する。温度、湿度、与える水の量。日照時間すら過不足があれば決して花は咲かない。そのあまりの希少性からこの世界において蘭は嗜好品の高みの存在だった。西白国(さいはくこく)においても国主の花紋として知られ、正妃の花紋である梨の花と並んで高貴な植物だと認知されている。
 その、蘭の名を与えた。
 蘭のあるじ――すなわち王であることを失念していたわけではない。名は体を表す。とは言っても新たなる王にと望んだわけでもない。ただ、文輝の眼にはそう「視えた」としか言い表しようがない。音が耳朶に伝わるとき、文字を伴う為には相互理解が必要だ。目の前の白喜――至蘭がそれを成し得たというのなら、やはりこの二文字で正解なのだろう。この世界の本質は彼女を蘭に至るものとして受容した。