「如風伝」第二部 十三話

「ねぇ、首夏。ひとりではとても退屈だったの。この森を案内するわ。一緒に行きましょう?」
「――どこへ、だ」
「清流に大瀑。閑けさの立ち木でもいいし、花が好きなら夏の花をいっぱい楽しめるわ」

 森中に思いを馳せる至蘭は屈託なく笑う。染み入るような蝉の声は未だ夏が始まったばかりの時候には不釣り合いだ。蝉には種類がある。この声で鳴く蝉は夏の終わりにしかいない。それに、と文輝は思う。陽射しの強さにも違和感がある。まだそれほど暑気を感じない筈の暦とこの山林の中は明らかに乖離していた。至蘭の巡らせた視線を追って、文輝もまた山林の中を見渡す。その先に見つけた竜胆の花が青々と花弁を開いている。あれは秋の花だ。季節の自然と暦が一致していない、という感覚が確信を得たような気がした。
 一つひとつ、噛み締めるように確かめながら文輝は至蘭が姿を消してしまわないように細心の注意を払って会話を続ける。
 
「俺は、そういうのに明るくないぞ」
「ならもっと好都合だわ。あなたにわたしの好きなものを広められるもの」

 あなたはきっと素直な性質だから、見込みがあるわ。
 言ってそっと微笑んだ至蘭は勝者そのものの顔をしていた。
 その、横顔に問う。至蘭は残酷に微笑んで、そうして文輝に時候の挨拶でもするかのような気安さで死刑宣告をした。

「至蘭。一つだけ訊きたいことがある」
「なぁに、首夏」
「君と一緒にいる、この場所の時間は人の暮らしからは隔絶されている、んだろうな」
「そうよ。ご明察の通り。だから、首夏。わたしはあなたを絶対に帰したりはしない」

 ずっと、ここにいるの。わたしと二人でずっと、ずっとここにいるの。
 笑みの形をしているのに慟哭しているのだと文輝は視認する。そのぐらい、至蘭の翡翠の双眸は悲しみと怒りを湛えていた。
 何があって至蘭は二十四白(にじゅうしはく)となったのだろう。その答えを知らないのに、文輝の感覚は彼女の悲運を予感した。神の序列に名を連ねるというのがどういうことなのか、文輝にはよくわからない。白帝(はくてい)と命運を共にし、自らの生死すら白帝に委ねる、というのがどういうことなのか、その意味もまた文輝には理解出来ない。それでも、至蘭の存在は文輝に悲しみを伝える。
 生きることも死ぬことも出来ないで――それでも数多の祈りを一身に受け、ただ尽くすだけの一生を背負っているのがこんな年端も行かない少女の姿をしていることに胸が痛んだ。偽善の二文字が脳裏に明滅して、自らの都合の為に至蘭を利用しようとしてることを思い出させる。そうだ。これはただの偽善だ。ただの同情で憐憫に他ならない。わかっている。わかっていたから、文輝はその感情を言葉にはしなかった。岐崔動乱を経て、漸く学んだその対処もまた偽善であるということを文輝はまだ知らなかった。
 至蘭といるこの場所が人間の営みからは隔離されている、という言質を取った後、文輝は自らの職分のことを一旦忘れることにした。ここにどれだけ長く留まっても現実世界に影響を及ぼすことがないのなら、文輝は至蘭のことを知りたいと思った。
 「信天翁」が心酔している相手、というのに興味があったし、刀匠の翁の懇願を覚えていたからかもしれない。
 文輝の前を得意げに歩いて、山林の見どころを一つずつ至蘭が教えてくれる。
 この山に咲く花を数えると百種類を超えること。夏と秋の間をこの空間はずっと繰り返しているということ。瀑布の滝壺に潜ると川魚がたくさん泳いでいるということ。その水源である内輪山に降る雪を至蘭は見たことがないこと。
 他愛のない話をずっと繰り返した。人間の世界ではないからか、不思議と空腹感も覚えない。夜も朝も飛ぶように過ぎた。何昼夜を過ごしたのか、ひと月かふた月か、あるいはそれ以上か。至蘭の言った通りに秋が終わる頃に爽やかな風が吹いて初夏に戻る。
 その繰り返しを何巡もしているうちに文輝はこの空間を作っているのが至蘭本人の記憶なのではないか、と考えるようになった。時間にして半年。季節の移ろいは二つ。朝の時間と夜の時間の切り替わりが極端に早く、至蘭が文輝に見せたいものが何なのか、という答えを探っている。
 ただ、至蘭本人にはその自覚がないらしく、婉曲に伝えたいことを確かめても彼女は不思議そうに首を傾げるだけで結論には至らなかった。