「如風伝」第二部 十三話

「ねぇ、首夏。あなた、どうしてそんなに難しそうな顔をしているの?」

 ある朝、山の頂上で昇ってくる陽の光を見つめていると不意に至蘭が問う。
 まるで天気の話をしているのと同じ重さで尋ねられたことに、至蘭が本当の本当に文輝の戸惑いを理解していないことを感じた。外見からは十ほどに見える。言葉はもう少し幼い。七つか八つ。心情の移ろいもそのぐらいだ。新しい季節が巡り、朝と夜を繰り返しても至蘭の感性は更新されない。ただ、同じものを同じ場所で同じ感情で受け取っている。よく出来た永久機関だ。そのぐらい、至蘭の言動には始終振れ幅がない。
 天仙(てんせん)というのはそういうものなのだろうか。涼しい顔をしていた白瑛(びゃくえい)も永遠の繰り返しだから平静を保っているのだろうか。
 自国を――自大陸を守護する存在のことなのに文輝は天仙のことを何一つ知らない。
 そこにあって当然だと思ってきた。今まで一体、文輝は何に対して祈っていたのだろう、とすら思う。
 その答えを知らない自分を知って、そうして文輝は自覚した。文輝の中に信仰心という類の感情はない。祈りは儀礼で、習慣だから続けていただけだ。空っぽの気持ちで空っぽの祈りを受けていた白瑛はそれでも文輝を否定しなかった。信梨――真理という権能を司るからには文輝の不誠実など見抜いているだろう。それでも、白瑛は文輝をたった一言すら非難しなかった。
 白瑛はどんな気持ちで白喜を連れ戻せ、と言ったのだろう。
 その感情の向こうを想像しようとして、文輝の思考力では答えに至らないことに至る。
 こういうことは文輝には不向きなのだ。もっと適したやつがいる。

「こういうのは俺の相棒の仕事で、俺は――向いてねえんだ」

 言い訳を口にして、子公の面影をまだ思い出せる自分に安堵した。文輝の中では途方もないほどの時間の経過を体感しているのに、それでも子公の顔はちゃんと思い出せた。青味がかった黒髪の下で鋭く輝く紫水晶は文輝の願いを受け止めた。だから。きっと現実世界での七日以内に彼は答えを導き出してくれるだろう。
 文輝には別の役割がある。白喜を――至蘭を理解する、というとてつもなく面倒で、危険で、全ての根幹を成す大前提を文輝が成さなければ全ては瓦解するのだ。
 決して泣き言を聞いてももらえない。誤ることも許されていない。
 命と引き換えになるかもしれない。そうわかっていたが、文輝は己が役割を受け入れた。
 だから。
 お前のことを理解したいのだ、とは口が裂けても言えなかった。それ以前に、文輝自身も少しずつだがこの役割のことを本心から受け入れようとしていた。
 考えるのは子公の仕事で、文輝はそれを受け入れるだけ。そう思っていた筈なのに、至蘭のことをもっとよく知りたいとも思う。
 自分の得意分野ではない。そう言い聞かせるように呟くと、翡翠は輝きを灯して文輝を射た。

「変なことを言うのね。そんなにつらいならやめてしまえばいいのに」

 そして自分と永遠にここにいればいいのに。至蘭はそういう意味で言ったのだろうが、文輝の気持ちは別の答えを弾き出した。

「――そうしたら、またお前はひとりぼっちになるだろうが」
「――えっ?」
「至蘭。わかってほしいなら、わかってほしいと言わねえと伝わんねえよ」

 特に文輝は馬鹿だから、直球の表現でなければ受け取れないものが驚くほどたくさんある。
 わかってほしいなら、わかってほしいと言う必要がある。そして、その前の段階として自分が相手をわかろうとしなければならない。対面したものと向き合わないのに、自分だけがありのままで受け入れられるなどただの幻想だ。そんなことはどれだけ時間が経っても、技術や文明が発達しても変わらないだろう。
 思っているだけの願望が現実にやってくる筈がない。
 どれだけつらくても、どれだけ惨めでも、どれだけ報われなくても、手を伸ばさなければならないのだ。引っ込めた手のひらの上に望んだ通りの希望を載せてくれる誰かなんていない。

「至蘭。花や滝の話がしたくて俺を見つけたわけじゃないだろ」
「――ちがう」
「いつまでもずっとここにいても、お前がほしいものはやってこない」
「――ちがう」

 隣に座った至蘭が衣の裾をぐっと握り込む。まるでそうしないとどこかに流されて帰ってこられないと教えられたかのように必死に何かをやり過ごそうとしているのが、逆に文輝に確信を与えた。
 文輝は馬鹿なのだ。前を向くことしか知らない。その行為がつらいということも認知しない。ただ、そうすべきだという理想の論理を信じて前に進む。
 それがときに人の心を深く酷く抉ってしまうことは先の動乱で十分思い知った。
 それでも、たとえ偽善でも、独善でも成さないよりはずっといい。そう決めて文輝は前に進んだ。正しさは全てを救わない。覆い被さった潤滑油が失われれば軋んで痛むことも当然ある。わかっていても、文輝はどうしても自分を偽ることが出来なかった。
 
「お前が本当にほしいものをそろそろ教えてくれてもいいんじゃないか」
「――首夏には、わからない。ぜったいに」