「如風伝」第二部 十三話

 文輝がその天命を終えて、次の命の巡りを諦めるだけなら悲しむものは最小限で済むだろう。次がないのなら、残りの人生をもっと大切に過ごせば自らの諦めも受け入れられるだろう。
 だから、百年ほしい、と文輝は言った。
 西白国の男性の平均寿命は六十歳だ。文輝はもう二十二年生きている。百年もあれば十分間に合う筈だった。
 こちら側から出来る範囲の最大限の譲歩を示したのに、至蘭は文輝の胸を小さな握りこぶしで強く叩く。痛くもないのにどうしてだか心臓の奥がぎゅっと絞られるような感触があった。

「――だよ」
「うん?」
「だめだよ! そんなの首夏にはきっと耐えられないよ」
「でも、永遠にここにいるなら、結果的には同じことになるだろ?」
「それでも――だめだよ。ぜったいに、だめ」

 だめ、と何度も繰り返して駄々子のように至蘭は文輝の提案をただ拒絶した。
 それでは話が前に進まない。この空間にいる限り、時間的な損失はないとしても文輝は遠からずここを出ていかなければならないのは自明だった。

「じゃあ、至蘭はどうしたい? 俺は今の俺の時間をお前に全部くれてやるわけにはいかねえんだ」
「――城郭のみんなのほうが大事だから?」
「持っている時間が全然違うから、だ」
「意味が、わからないよ」
「一瞬の輝きはその一瞬でないと見られない。俺が全部を棄ててお前を選んでも、お前はきっと後悔する」

 刹那の時間しかないものが美しいのは当然だ。その瞬間。瞬間に全てが詰まっている。人は――生き物は皆、それを眩い気持ちで見つめる。終わりがあるからこそ、輝きを認められる。
 今、ここで至蘭の望みを叶えても、遠くない未来にそれはお互いにとっての当たり前にすり替わって美しさとは別離するだろう。空気のようにただあるだけの存在。そういう当たり前のことを疎んでいるのではないが、至蘭が求めているのはそうではないという感触があった。

「なぁ、至蘭。俺と一緒に、ここじゃないとこで生きてみないか?」
「――首夏はそれでいいの?」
「何が」
「わたしのために未来をすてて、それで本当に後悔しないの?」

 それは愚問だ。文輝は不本意な提案は決してしない。どれだけ遠回りをしても自らの感情で受け入れた答え以外は決して口にしない。妥協をすることは勿論あるし、迎合することも忖度をすることも斟酌することもある。

「お前がお前の気持ちに折り合いつけて国を守ってくれるのに、俺だけが何もしねえわけにはいかないだろ」
「それはそういう仕事だから?」
「違う。違うさ、俺が『そうしたいから』だ」

 誰かの敷いてくれた道の上を歩いているのではない。その道はあの朝、霧が晴れるように消え去った。今の文輝は誰の期待を受けているわけでも、誰かの為に生きているわけでもない。ただ、自分がそうしたいと願ったから再び国官の登用試験を受けた。
 人間と言うのはいとも容易く人を裏切る生きものだ。越えられる、と望まれた障壁を飛べないことも勿論ある。それでも、人間は他人を信じ他人と共に生きていくしかない生きものだ。
 だから。せめて誠実でありたいと文輝は望んだ。人に裏切られても、人を信じたいと願った。この広くて狭い世界の中で、人として生きることを選んだからには自らが思う最も人らしい生き方をしたいと思った。
 それを訥々と語ると至蘭は眩しそうな顔をして、そうして呆れたように溜息を漏らす。
 
「首夏ってばかだってよく言われない?」
「えっ? よくわかったな」
「わかるよ。誰だってわかると思う」

 まるで泣きそうな細い声で至蘭がそう結んだ。

「首夏。人ってね、そんなにつよくないんだよ」

 隣人を見れば羨ましく思い、それはいつしか妬みに変わる。妬みは怨嗟にまで行きつき、そうして人は人を呪う。あいつよりも金持ちになれますように。あの子よりもいい縁談が来ますように。幸せを願う対象だった筈の白帝廟で人は誰かの不幸を願う。自らの幸福を肯定する為に、誰かの不幸を人はただ祈った。
 至蘭はもうずっと、ずっとその負の祈りを聞いてきた。その度に人の醜さに溜息を吐いては知らぬ顔を通す。それでも、至蘭の中には昏い感情が処理しきれずに残った。凝りは心を覆う。誰かの幸せの為に祈る声が届かなくなるぐらい、至蘭の心は荒んでしまった。祈りを叶えない天仙に祈るものは次第に減り、そうして東山の白帝廟は白才(びゃくさい)と共に荒廃の道を辿る。それにどのぐらいの時間の経過があったのか、至蘭は決して語らなかったが少なくとも、西白国の治世よりずっと以前からそうだったのだろうということだけが文輝にも理解出来た。