「如風伝」第二部 十三話

「わたしも、つよくないんだ」
「――至蘭?」
「首夏だけだよ。そうやってわたしに名前をくれたのは」

 天仙として召されるまでの間、至蘭はずっと暗闇の中にいた、と言う。自らの生を認知することすらなくただ闇の中にいた。両親の顔も知らない。在るということすらわからずに「その日」まで生き永らえたのはひとえに白帝の加護があったからだろう。生まれた瞬間から、二十四白となる運命を背負っていたことを知らされても喜びも悲しみもなかった。ただ「そう」であることすら認知出来ないぐらい、至蘭の人生は本当の本当に何もなかった。

「『沢陽口の城郭の東側で大雨が降っている。鎮めてほしい』って言われたけど、わたしにはその意味すらわからなかった」

 土着神――怪異を鎮める為には怪異と同等、またはそれ以上の神威を必要とする。人の身では到底間に合うわけもない。畢竟、天仙への昇華――即ち、人としての死を必要とした。
 闇の中から無理やりに引きずり出され、人としての尊厳すら守られないまま至蘭は天仙となる為に濁流の中へ放り込まれる。悲鳴を上げる暇すらなく、至蘭の人生はそこで終わった。
 その不条理の中でようやく至蘭の自我が芽生える。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。どうして自分には何もないのか。どうして、知りもしない赤の他人の為にこれほどまでの苦しみを背負わなければならないのか。憤りが至蘭に生への執着を与える。
 そうして――人間への強い怨嗟を元に二十四白の一人が生まれた。
 人を憎み、人を呪い、人を苦しめようという気持ちがあまりにも強く――それは嘉台州の怪異の神威を上回り、結果的に鎮守としての効果を発揮した。荒神は人々の祈りと白帝の神威によって、長いながい時間をかけて無害化される。それが白喜――至蘭の成り立ちだ。

「自分たちの都合で、自分たちの一瞬のしあわせのためにわたしが死んだことを、わたしはきっと忘れないと思う」

 それでも、そんな至蘭でも文輝は共に生きようと思うのか、と彼女の翡翠は問うている。
 即答は出来なかった。二つ返事で肯定するにはあまりにも重く、昏い感情を伴っていたが、至蘭の声には僅かながら希望の色が載っていた。ここまで来て否定を返せるほど文輝は残酷にはなれない。
 今、この瞬間の絶望か、或いは希望を見出してからの反動でより深くなる絶望かぐらの差しかないだろう。わかっていたが、それでも文輝は答えに迷う。
 至蘭はその迷いなどさっと看破したのだろう。
 翡翠の碧に失望を浮かべて、彼女は殊更優しく微笑んだ。

「首夏、無理しなくていいんだよ?」

 今ならまだ希望になど出会わなかったと諦めることが出来る。
 文輝が望まないのならこの二人きりの永遠から解放して、一人で逃避の旅に戻るだけだ。難しいことは何一つとしてない。
 そんなことを酷く傷付いた顔をして提案されて、はいそうですねと呑めるなら文輝は今頃ここにはいないだろう。
 だから。

「――馬鹿はお前じゃねえか」
「えっ?」
「そうだろ、至蘭。俺は言ったよな。わかってほしいなら、わかってくれと言わなきゃわかんねえだろうが。一緒に生きる誰かがほしいのに、わかったような顔をして、一人で諦めるんじゃねえよ」
「でも――」
「でも、も、けど、も知るかよ。お前はどうしたいんだ? 天仙には助けてを言う権利すらねえのか」

 だとしても、そんな無意味な決めごとなど今ここでぶち壊してしまえばいい。
 心の底からそう思ったから文輝は憤った。
 文輝にはまだ、人の願いを本当に実現するだけの神威も、権力も、実力も何もない。
 気持ちだけで現実を変えられるなんてただの幻想だ。世界――世の中を変えるにはもっと大きな力が必要で、それはどれだけ美しい理想を描けたとしても必ず得られるとは限らない。
 文輝に至蘭を助けられるかどうか、やってみるまで結果はわからない。
 不用意な優しさは人を傷付けるだろう。
 無遠慮な親切は希望を抉るだろう。
 それでも。願わないのに叶うことなんて一つもない。
 叶えたければ、まずは願わなければ始まらないのだ。
 それがどれだけ酷なことを言っているのか。文輝はまた忘れかけているのかもしれない。

「一緒にやって、一緒に失敗するってのは駄目なのかよ」
「――首夏。あのね」
「お前だって、好きでやってることじゃねえだろ。自分で選んでもねえのに押し付けられることなんて山ほど見てきただろ。お前も、俺も、その一人に加わるだけじゃねえか」
「首夏。ごめんね、でも、わたしは首夏ほどつよくはなれない」
「――どうして」
「ごめんね、わたしはもうこれ以上、きずつきたくないんだ」

 あなたを巻き込んで、失敗して、あなたの未来を奪ったと自分を嫌悪するぐらいなら今のままでいい。人の希望を見ないふりして、このまま沢陽口の城郭と共に滅びる方がずっと楽だ、と至蘭は酷く苦しそうに何度も何度も詰まりながら文輝に教えてくれた。

「首夏。いのちはもっとだいじに使った方がいいよ」
「――それ、お前が言うのかよ」
「うん。わたしは首夏にはしんでほしくないから、ここを出て、あなたのだいじな人と城郭の外ににげてほしい」
「お前が、この城郭を滅ぼすのに――?」
「そう。わたしはこの城郭を滅ぼすのに」

 ごめんね、わたしにも力があればもっとちがうこたえがあったかもしれない。
 落涙しながらそう切れ切れに謝罪されれば、なんと言って咎めればいいのか、言葉はもう出てこなかった。祈りが足りないのだ。至蘭が天仙として力を行使する為にはもっと多くの祈りが必要だった。この問題が解決したら文輝は祈ろうと思った。子公や岐崔の家族を巻き込んででも祈ろうと思った。その選択が既に遅かったことを知って、文輝はまた己の無力を嘆く。
 全てが間に合わなかったのだ。
 それは天命の一つで、文輝が自らを嘆いても始まらない。わかっていても、もっと違う結末があったのではないか。そう自問自答する文輝に至蘭は優しく告げる。あなたがこの城郭の異変に気付いた時点で全てはもう定まっていたことなのだ、と。

「じゃあね、首夏」

 悲嘆に暮れそうな文輝の胸にその言葉が刺さった。
 在ったところで何の役にも立たない存在。その烙印が今一度、焼き付けられて文輝の意識が急速に至蘭から遠ざかる。待ってくれ、を言う時間すらない。至蘭の最後の笑顔がまだ網膜に鮮やかに残っているのに文輝は至蘭の永遠から弾き出されてしまった。
 蝉の声は聞こえない。代わりに木々の葉を、下草を、地面を強く打ち付ける雨の音だけが響いていた。
 文輝の衣服が一瞬で水分を含み、纏わりつく。
 ここはもう、既に文輝が在るべき沢陽口の東山の南端だった。多雨の怪異は城郭を飲み込み――そして、最悪の結末を迎えようとしていた。