「如風伝」第二部 十四話

 青みがかった黒髪も今や雨に濡れて闇の色をしている。子公から少し離れた場所にいた赤虎──華軍が子公の声に気付いて近寄ってくる。その炎の体毛すらどす黒く感じるが二人ともそんなことには構っていないようだった。

「──子公」
「赤虎殿、あれを回収してやってくれ」
「小戴、この林はもう持たん。山を一つ下るぞ」

 赤虎の怪異としての聴覚にもこの山林の限界は伝わったらしい。それもそうか、と文輝は一人納得した。文輝の感覚器は今、華軍の能力を借り受けた状態だ。文輝が知覚していることを華軍が知らない筈がない。そんなことすら忘れてしまうほど、文輝が至蘭と過ごした永遠の刹那は長かった。
 一瞬で永遠の刹那から解放されて、そうして自分だけが安穏を手にするのか。
 至蘭が言うように──この城郭の全てを見捨てて逃げ出して安全な場所から他人ごとと案じればいいのはわかっている。至蘭──天仙と怪異の勢力争いなど、本来、文輝とは無縁の出来ごとだ。
 それでも。

「──ってください」
「何を言っている」
「待ってください、華軍殿! 俺は至蘭を見捨てて逃げてはならないのです」

 それが文輝の出した答えだ。
 義務だからではない。任務だからでもない。純然たる欺瞞と自己満足の為に文輝はその答えを選んだ。
 
「それが白喜の名か」
「はい、俺が付けました。白喜──至蘭をひとりで放っておくことは同じ過ちを繰り返すということです」

 至蘭を一人で放置するということは即ち、現状を黙認するということに他ならない。祈りも捧げず、廟に参ることもなく、ただ自分たちの利益の為だけに酷使する。それを当たり前と押し付け、感謝の念など抱きもしない。至蘭の感情を棚に上げて自らの都合を最優先する。そんな傲慢がどうして許されるだろう。そんな強欲がどうしてまかり通るだろう。目の前で泣いている仲間がいるのにどうしてそれを無視して自らの事情ばかりを重視するのか。その利己主義が生み出したものが現状だ。誰に顧みられることもなく、ただあることだけを強いられ、これからも未来永劫その苦痛を抱えることを一方的に決定されるのでは誰の感情も調和しない。自分たちの都合の為だけにかつての同胞を酷使するのは人としてあまりにも道に悖る。
 天仙の庇護を受けるのが人々の権利だとしても、その齟齬がここまで大きくなっているのなら、そろそろお互いのことを見つめ直し、歩み寄る必要があるのではないか。そう、文輝が主張すると華軍は何も言わなかったが子公が苦虫を噛み潰したような顔をした。

「文輝。貴様に言われた通り史書をさらった」
「至蘭は海藍州から人柱になる為に連れてこられた、ってのなら本人がそれとなく喋った」

 そのぐらいの聴取は出来た、と示すと子公の紫水晶は酷く傷付いた輝きで文輝を射る。
 子公は文輝が知らない何かを知っている。文輝が命じた通りに確信に迫る情報を得て、あるじを探していた、と考えるのが妥当だろう。信頼した通りの有能な副官だということを文輝はもう一度実感した。
 
「誰がそうしたか、の部分は聞いたのか」
「──いや。そこまで記録が残ってるのか」
「史書にはその記載はなかった。私がそれを見つけたのは悪辣に書かれた国生みの神話の中だ」
「はじめに陛下がおられて──?」
「そう。はじめに白帝があり、西方大陸の統治が行われていく。西白国の史書などでは到底扱いきれんほど古の記録だ」

 国生みの神話は白帝の西方大陸到来から始まる。
 黄帝――すなわち始祖神から四方を守護する四帝に分離したものの一柱が白帝だ。中央で生まれた神々が地方へと進出し、そうして西方大陸に辿り着く。初代白帝の到来した大陸は土着神をはじめとした怪異が跋扈しており、複数の民族が複数の思想によって争っていた。白帝はその中の一氏に加護を与え、西方大陸の統一を目指す。
 その過程で怪異は淘汰され歴史の彼方に消えた。よこしまなものとして扱われ、人々は怪異に祈りを捧げなくなる。
 この世界において神が神格を有するのは祈りを受けるから、以外の理由はない。
 祈りを失った神は力を失い、やがて「なかったもの」に変わっていく。
 そのことを国生みの神話は伝えない。代わりに邪教のものに打ち勝った栄誉の存在として白帝の系譜に連なる神仙を語り継ぐ。近世において、その栄誉を受け継いだのが二十四白だ。未だ枠を欠く、不完全な存在ながら神――白帝を確かに支える高次の存在として人々は天仙を戴いた。
 岐崔で文輝が教わった国生みの神話はほんの一部でしかない。
 沢陽口の城郭に伝わる国生みの神話には別の側面があった、と紫紺の瞳が告げている。
 その答えを聞いてはならないと直感したが、それでもずるずると先延ばしにするのは無為が過ぎる。文輝は借りものの紅の双眸を閉じてゆっくりと開き直した。
 多雨の中、お互いずぶ濡れで色彩は失われつつある。
 子公が文輝以上の痛ましさを抱きながら、問いに答えた。