「如風伝」第二部 十四話

「──誰なんだ」
「──白瑛(びゃくえい)だ」
「──え?」

 諸悪の根源の名を尋ねたつもりだった文輝からすると、子公の答えが噛み合わない。
 どうして、この国において最も高貴とされる存在の名が紡がれるのだ。文脈が整わない。頬の上を叩きつける雨粒のことすら気にならないほど、自分の鼓動の音が大きく聞こえる。紫紺は揺れながらもそれをじっと見ていた。この紫水晶が嘘や偽りを口にするかどうかなら、この中では文輝が一番よく分かっているだろう。子公は人を傷つける為の嘘は吐かない。
 だから。
 彼の返答を耳にした瞬間、文輝は頬を拳で殴りつけられるより余程酷い痛みを感じた。目の前が真っ暗にでもなったような錯覚すら生んで顔色をなくしただろう文輝を見て、それでもなお有能な副官は言葉を止めない。

「元々澤地だったこの場所に多雨の怪異を招き入れたのも、多雨の怪異を白瑛自体が封じなかったのも、すべては白喜という天仙を生む為だった」

 四代目の白帝は二十四の天仙を必要とする。未だ満たされないその空隙が白帝の薄弱を告げているのを見逃して安寧を得られると心の底から誰もが信じているわけもない。人ですら白帝を盤石のものと思っていないのに神に仕える天仙がそれを憂わない道理などどこにもなかった。
 一年でもひと月でも一日でも早く、その隙間を埋めなければならない。
 西白国開闢以前の大陸でいち早く白帝の補佐を務めた天仙たちの感じた焦燥は想像を絶する。
 人の命を救うために人を犠牲にすることを躊躇わない程度にはこの地は混沌としていた。
 だから。
 邪神は討たなければならない。
 神威は示されなければならない。
 唯一にして絶対のもの。白帝のその地位を確固たるものにすべく、白瑛が策を練った。というのが子公の推論だ。そして、彼の中では何らかの確証があるのだろう。天仙の一人を糾弾してもその眼差しが揺らぐことはない。
 異国の出身だ。白帝を敬う気持ちがない。そう切って捨てることが出来ないぐらいには文輝も子公の誠実さを知ってしまっていた。

「待ってくれ。じゃあ何か。信梨殿の自作自演、だとでも言いたいのかお前は」
「そうだろう。白瑛。貴様は文輝が白喜を見つけるのを知っていたな?」

 紫水晶が文輝の背後を通過して別の誰かを睨み付ける。
 絶対に聞こえてほしくなかった声がそれに応じたとき、文輝の中で何かが崩れ落ちる音が聞こえた。

「そうであれば何の問題があるのですか、副官殿」

 その資料探索能力は評価するに値する。言って何ごとも起きていないかのように平坦に紡がれる言葉が文輝の耳朶を右から左へと通り抜けた。
 白瑛はすらすらと彼女のしたことを詳らかにする。
 元来、雨量の多かった澤地に多雨の怪異を「意図して」呼び寄せ、海藍州にいた至蘭を人身御供として捧げ、治水を成功させた。白瑛への信奉が高まり、沢陽口は治水により肥沃な大地へと変貌した。そして、人としての命を終えた至蘭を二十四白として迎え入れ、白喜として祀り上げた。至蘭は白喜になる以前の記憶がない。記憶がない、というよりは理解出来ていないのだろう。だから、自らを犠牲にして成り立った城郭を何百年も何千年も見守り続けた。人の祈りが絶え、その力が弱ってなお白喜はその務めを全うした。至蘭一人の命で後世に続く数多の人民の命が救われた。最小の被害で最大の勲功。中科で学ぶ理想的な作戦の在り方そのものだった。
 神に次ぐ存在になれたことを白喜が喜んでいるのならそれでよかった。
 多くのものの為に賭した命に価値があるのならそれでよかった。
 天仙として毅然と振る舞い、人を導く存在であればどれだけよかっただろう。
 至蘭の人生は始まった瞬間に終わって――その新たな局面を迎えた。その一連の流れすら神の意図に沿うように企てられていたのだとしたら、至蘭の意思は一体誰が汲むというのだろう。
 世界を知ったその瞬間に濁流に放り込まれ、死して、淋しいもつらいも苦しいも助けても言えないで何千年もの間、至蘭は荒んでいく心を持て余していた。
 全てがなくなってしまえばいい。
 神も人も獣も山も木々も空気も風も、みんななくなってしまえばいい。
 そのくさくさとと荒れる気持ちを救い上げずに、在れとだけ命じられ、それに抗うことすら許されない。その犠牲を一人に押し付けるのは何かが間違っているのじゃないか。
 義憤が文輝の胸中に満ちる。
 この国は個人と個人が律令の元に協力し合う国だと思っていた。
 その実、現状はどうだ。
 命を命とも思わずに搾取する。それが天仙の役目なら、そんなものにこれ以上祈りを捧げる気には到底なれなかった。荒みだす心は歯止めが効かず、どんどん不信感だけが募る。
 自分が仰いでいたものが何なのか。摂理とは何なのか。岐崔動乱のあの夜から文輝はその答えを欲している。神を信じていないわけではない。だのに、どうしても、神仙の存在に疑問を覚えずにはおれなかった。
 揺れる文輝を一旦放置して、子公は詰問を続ける。

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