Fragment of a Star * 06:買い出し

「あるじどの。王子様と騎士殿のことは聞かなくてもよくて?」
「契約に応じてくれた二頭のカッソを連れて先に宿に向かったのだろう?」

 厩に預けた後は簡易の鞍を探しに行く。違っていたのか、と反語で問うとスティーヴは曖昧に微笑んだ。

「あるじどの。あなたにはもう少し、頭を空っぽにする、という行為をお勧めするわ」
「何を言うのだ。今、お前が私に施してくれたところだろう?」

 女鹿の魔獣がそっと背後を歩いていたことに気付いたあの瞬間、サイラスの頭の中は真っ白になった。その次の瞬間からは再び、どう振舞うのが適切か、といういつもの状態に戻ってしまったが、それでもスティーヴは思考をリセットしてくれた。十分だ。その一拍でサイラスの思考は柔軟さを取り戻し、明日の景色を描き出す。本当に、それだけで十分なのだ。

「呆れたヒトね。本当に。せっかくの旅なのだから、もう少し気を緩めてもいいのではなくて?」
「まるで私が常に闘争を好んでいるかのような言いぐさだな」
「あら? 違っていて? あなたはいつでも糸が切れてしまいそうなほど張りつめていてよ」

 それは暗にスティーヴと邂逅したときの態度を指している。
 失敗など許されない。一部の隙もなく振舞わなければならない。周囲は全て敵で、一瞬でも油断すると取って食われる。そんな強迫観念と背中合わせでいてはいつ安堵するのだ。具体的には何一つ指摘されなかったが、サイラスの耳はとても一拍では聞き取れないほどの文句を知覚した。
 若草色の紙袋を大切そうに抱えたスティーヴが言う。

「わたしたちがいて、あなたが危険を感じる瞬間などどこにもないわ。あなたは必ずわたしたちがソラネンへと送り届ける。どこに行こうとも、誰といようとも関係がないの。あなたの命が終わるその瞬間まで、わたしたちはあなたの盾であり、剣となるのが至上の喜びなのだから」

 スティーヴのその言葉には一音の乱れもなかった。本当の本当に彼女はその役割を誇っていることをサイラスに教える。自らが認めたものの為に全力を尽くす。それが魔獣だと文献にもあった。テレジアもまたその例外ではなく、サイラスに命を救われ、彼に育てられたという恩義を何よりも重んじている。
 サイラスの為になれるのなら。それが剣でも盾でも構わない。振り返った視界で亜麻色の髪の乙女が凛としている。その翡翠の双眸には陰りすらなく、彼女は尊いものを優しく見つめていた。

「スティ。私は自らを守る為だけにお前たちを矢面に立たせるような貧弱なあるじなのか」

 その問いに一瞬だけ、スティーヴは息を呑んで、それでも結局は柔らかな笑みで言う。

「ええ、そうよ。ヒトなど皆、わたしたちからすれば幼子のようなもの——守らせてほしいの。あなたを守って負った傷は誇りよ」
「スティ。女性が傷を負うなどと容易く口にするものではない」
「容易くて何がいけないのかしら? わたしに傷を負わせられるものがどれだけこの世界にいると思っているの? それに」
「それに?」
「あなたはわたしたちに容易く傷を負わせるようなあるじではないと思っていたのだけれど?」

 サイラスというあるじは力を振るうべきときと場所を知っている。その塩梅を誤ることは決してない。信じているから最善を尽くせる。信じられるから、彼女は全力でサイラスの願いを叶える。共にある、というのはそういうことだと言った女鹿の魔獣は揺らぎもしない。
 ヒトが——世の中の遍くヒトビトが魔獣の行動原理を持っていたら、きっとこの地上はもっと平穏な空気に包まれていただろう。ヒトを出し抜き、ヒトを蔑み、嘲り、侮り、そうしてヒトを従えてなお猜疑心に囚われることなど決してなかっただろう。それでも、ヒトはヒトの世の中しか営むことが出来ない。高潔な隣人を羨んでもヒトがヒトであることを辞める日は来ない。
 だから。

「スティ。私はヒトだ」
「ええ、そうね。知っているわ」
「高々、数十年で老いさらばえるただのヒトだ」
「けれど、ヒトは知を紡いでいく生きものよ。あなたが学んだ多くの文献も、あなたに先んじた誰かの祈り。その祈りの価値を知っているあなたはきっと次の知を紡いでいくわ」

 そうして数十年の後にあなたの知が誰かを救うの。
 言いきったスティーヴはまるで我がことのように誇らしげで、弁舌家を自負していた筈のサイラスが反論の言葉に詰まる。

「いい? あるじどの。あなたはヒトを卑下するけれど、わたしたちはあなたたちを愛しき隣人と思っているわ。ヒトの世にしかない美しさをわたしやフィルに見せてくれるのではなくて?」
「——それが、私にしてやれる数少ない報恩だからな」

 魔獣の道義をサイラスはまだそれほど知らない。
 サイラスが知っている魔獣は十年連れ添ったテレジアと、彼女に宿命を預けて消えたギリアデ——鼠の魔獣・ジアルのグロリオサ・リンデリだけだ。スティーヴのこととフィリップのことは少し型破りの二頭だとしか知らない。そんな二頭の魔獣は恭順でも忠誠でもなく共存を謳った。だから、サイラスは魔獣についてはまだまだ未知のことの方が多い。

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