おたかん! 01:波乱の幕開け

 廊下を音もなく渡ってきた高遠がそこにいると気付いたときには信淵の身体を支えていた帆足から頭を下げるように指示される。現代日本でそこまでの接遇を求められる相手、というのを信淵は知らず、困惑を感じた。「構わない。顔を上げろ」と高慢に降ってくる声に許され、発言者を見るとそれはどこをどう見ても高遠遊馬その人だった。
「君が見ていたのは何か、と尋ねたな。俺は遠回しな言葉遊びは嫌いだ。はっきり言おう。俺の生み出した『素材』の記憶そのものだ」
 そして、その記憶を辿ることで高遠は「素材」の情報を固定化した、と言う。
「生駒、共有しろ」
「承知しました」
 先ほどまで信淵に対し、つっけんどんな言葉を投げつけていたのと同一人物なのかと疑いたくなるほど従順な態度で生駒がこの場にいる異能者全員にスマートフォンの提示を求める。その一つひとつに生駒が手をかざすと通知のポップアップがあって、画像フォルダにデータが追加された旨が表示されていた。
「今回、俺が探すのはその『コウゾ』だ。現在、栽培されているものの祖となる種で、この吉野の山林のどこかには残っているというのが京極の見解だ」
 自生しているものを山中から探し出した後は、九条八家の異能の全てを使って培養するという。生育環境は「分析者」が既に把握し、「臨場師」が再現した環境で「固定者」が生育する。「適応者」と「補助者」がそれを補助し、無事一枚分の和紙を漉くのだが、それは「表現者」が行うそうだ。
 絵画の修復ということもあり、絵付けも必要だがそれは別件として扱い、和紙の復元が完了すれば今回の任は完了となる。取り敢えず、コウゾを見つければ帰京だ、という一つの解決策を示されて信淵はようやく安堵した。
「志筑。中和剤がまだ十分に浸透していないようだな。君はここに残れ」
「えっ? でも——」
「一ノ谷から聞いていないのか? 君の異能ならばこの山のどこにあっても作用する。体調が万全でないものを山中に放り出して遭難でもされれば手間だ。ここに残れ」
 その言葉を聞いたとき、信淵は勝手に一人で落胆した。自分が役に立っている、と思っていたのに生駒が辛辣に評価した通り、ただのお荷物でしかない。特別な現象に巻き込まれ、特別な何かになったつもりでいたが、それはただの思い上がりだった。
 そんなことを痛感して、高遠の言葉に不承不承頷くと一同は山中に向けて出発した。
 結局、その日は一日、神社の雑用を手伝うことになった。主に境内の掃除だったが信淵が認識していたよりずっと広く、雑草を処理していたら日が暮れて高遠たちが戻ってくる。君は何をしている、俺は休めと言ったのだが、と呆れられても朝ほどの畏怖も失望も味わわずに済んだのはきっと、中和剤が上手く作用してきたおかげだろう。どこにいても信淵の異能は効果があるのだとしたら、ここで雑草を一本一本引っこ抜いていてもいいのではないか、と反駁すると高遠は変わったやつだと言ったきり、特に追撃を浴びせてくることもなかった。
 どこの地域を探したが発見出来なかった、という情報を夕食の後に九条家の異能者たちは共有し始める。相馬が具現化した地図上で三分の一程度、探索が完了したようだった。明日は調子が整っていたら信淵にも参加してもらう、と言われて担当区域が示される。異能があることを前提とした無線機とゴーグルを手渡され簡単に使い方の説明も受けた。どうやらこのゴーグルをかけていれば「素材」を捕捉するとアラートが表示されるとのことだった。
 一抹の不安を抱きつつ、その夜も社務所の離れで眠った。どんどん当たり前の大学生活が遠ざかる。信淵は一体どんな運命に放り込まれたのだ。嘆きながらも時間だけは確実に進む。明日こそ「素材」がどうにか見つかってほしい。祈りにも似た切なる思いを抱いて信淵は慣れない寝床に身を預けた。
 一ノ谷が調合した中和剤の効果なのだろうか。夢はもう見なかった。
 暗闇の沼から目覚めると相馬も帆足もまだ眠っている。そっと音を立てないように縁側に出ると作業着に身を包んだ一ノ谷が粉末状の何かを作っていた。
「一ノ谷さん?」
「おや、信淵クン。また夢でも見たのかい?」
「いえ。おかげさまでぐっすりでした」
「そう。キミは中和剤の適応力も高いようだね」
 本当に、志筑のものとして素晴らしい才だよ。言って微笑む一ノ谷はどこか憂いを帯びていて、信淵に対して良心の呵責を覚えるのなら、なぜわざわざ迎えに来たのだ、と詰ってしまいたい衝動に駆られる。
「何を作ってるんですか?」
「強化剤だよ。言ったろ。ボクは『補助者』なんだ。それぞれの異能を強化するのがボクの役割だけど、一ノ谷の家長であるボクをしても、一度には一つのことしか出来ないんだ」
 ボクもこう見えて学生の頃の専攻は薬学でね。調合するのだけは何とか人並み以上には得意だよ。
 その言葉の端々に信淵と彼女自身を比較している雰囲気が滲んでいて、言いようのない感情を信淵に与えた。

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