僕らの泡沫 2nd.雨森哲の計画的犯行


「僕は結局、人の親にはなれなかったけど弟子だけはたくさん育ててきたからわかるんだ。きみにはきっと『才能』があるんじゃないかな」
「──なん、の」
「無意識で人を喜ばせてしまう才能、とか。本当に楽しいと思うことを楽しめる才能、とか」
 めちゃくちゃ抽象的で何の利益も生みそうにない才能だ。
 小学校教諭とかが通知簿に書いてくれる長所に近いものがあり、俺は思わず苦笑する。
「真面目に聞いた俺が馬鹿ってことすか」
「うーん、お金に繋がらない才能にだって価値はあるんだけど、そうだねぇ。きみがほしい言葉なら『音楽を作る才能』がきみには備わってると僕は思う」
「俺、ピアノ、弾けなくて」
 音楽の才能なんてきっとない。
 そう、否定しようとした俺を差し置いて雨森は「うん」と俺の謙遜を真顔で肯定した。
「そうだね、きみ、演奏は下手くそな気がする」
「……はぁ?」
 一瞬、雨森が真顔で俺に喧嘩を売っているのか、と真剣に考えてしまう。
 ピアノの才能がない、は、ほぼ、音楽の才能がない、と同義ではないのか。
 そんな順接を結びつける俺の耳を雨森の不思議そうな声がぶん殴る。
「もしかして、楽器が出来ないと音楽を作れないと思ってるの?」
「もしかしても何も、普通そうでしょ」
「耳の聴こえない音楽家のことは知ってる?」
「ベートーヴェンなら音楽史で知ってますよ」
「そう。きみの言ったベートーヴェンもそう。この国でも後天的に聴覚を失ってなお作曲を続けている人もいるんだ」
「でも、それって結局、『楽器を演ってた』実績の上に成り立ってると思うんすけど」
 反論するときには既に涙は引っ込んでいた。
 冬の寒空の下、俺と雨森の禅問答はもう少し続く。
「成田彦五郎は知ってる?」
「えっ、いや、誰すかそれ」
「僕の友人で、いきなり頭の中に音楽が生まれる超天才型作曲家なんだけど」
「えっ、俺、そういうやつに見えてるんすか」
「うん」
「いや、日本語の会話的にそこは否定が来るべきでしょ」
「哲くん。べき、とか、ねばならない、とかは捨てようよ。そんなこと言ったって事実は変えられないんだ」
「なんか、いや、そうなんすけど、俺、まだ典型的日本人の枠組みの中にいるんで」
「じゃあその壁、殴ってでも蹴ってでも壊しちゃおうよ。音楽に決まりなんてない。不協和音すら音楽に変えた作曲家だっている」
 きみは常識の中で守られることをそんなに重視するのかな?
 挑発的なのに平坦に紡がれた雨森の問いを受けて、俺の心臓が大きく鼓動した。
 常識は俺を守ってくれない。
 俺がどれだけ常識を守ってたって、常識は俺を守ってくれない。
 わかっている。
 わかっているから、俺はここにいる。
「試してみて、やっぱ無理だったときの為に大学を出る?」
「そう」
「成人してからハルさんちの子になったら本人の意思だって言える?」
「そうだよ」
「俺がもしも本当にだめなやつでも、生きる場所はある?」
「僕の喫茶店、継げばいいじゃない」
「そんなことしたらハルさんの奥さんとお子さんに申し訳立たないじゃないすか」
「哲くん。安心していいよ。僕、こう見えて独身子なしだから」
 にこり、と擬音がなるような笑みを浮かべて雨森が問題発言を投下する。
「いや、逆に心配になるじゃないすか!」
「いやぁ、いい後継者が見つかりそうで僕も安泰だなぁ」
「ハルさん、常識って面倒すね」
「でしょ?」
 常識は人を縛る。いい意味でも悪い意味でも停滞を伴う。価値観の更新を妨げて境界内の時間を固定する。当たり前を共有するといえば聞こえはいいが、暗黙理の連続で外部のものを排除し、新しいものを排斥する。そこからはみ出せば容赦なく村八分だ。村八分なんて言葉が古語になっていない時点でこの概念は俺たちの社会に根付いている。島国根性だとか、理由の多くを統計学や心理学、社会科学や文学などの学問が示してきた。
 出る杭は打たれる。二十一世紀の今なお、この国は多様性の本質を理解しない。
 それでも。
 常識の中に入れなかった一部の人間を疎外して、その他大勢の内輪だけで完結して、そうした先にこの国の未来は本当にあるのだろうか。
 ガラパゴスと自嘲するくせに、その本質を誇りにすら思っている価値観を俺も雨森も知っている。
「ハルさん、俺、本当は音楽、鳴ってるんです」
 伸びやかなアルトサックス。その調べが耳の奥でずっと響いている。楽器の構造なら知っている。それでも一度も吹いたことのない楽器の音色が脳漿の中でずっと何か音律を紡いでいるのは正直、自分でも意味がわからない。どういう現象なのか、俺は理系ではないから脳科学や認知科学で分析する日は来ないだろう。
「楽譜は──書けそうだよね」
「平均評定4.7の男すから」
「うん。じゃあ、やってみようよ。きみがきみを全部棄てる前に、僕と一緒に挑んでみよう?」
「もし──二年待たずに捨てられたら拾ってやってください」
「いいよ。もちろんだよ」
 こうして俺は事実上、二人目の父親を手に入れた夜を寒風に吹かれながら過ごす。
 雨森は奇特にもそんな俺に付き合ってあちこちのコンビニを一緒に巡ってくれた。財布として、と言うのもあったが、実の父親とそれほど歳が離れていない雨森がいたからこそ俺は補導も通報もされなかったのだと知っている。
 あちこちの防犯カメラには俺と一緒に歩く雨森の姿が記録されてしまい、俺の両親が本気で雨森を訴えたら言い逃れの出来ない証拠を大量に残してしまったが、おそらく、父親は金よりも体面を気にするから、裁判にまでなることはないだろう。そこまでを話すと雨森はもしお金で解決出来るなら僕は払ってしまうかもしれない、と底意地の悪い冗談を口にしたが、多分、そうなったら俺は雨森にどんな借りを作ってでも交渉を決着させ、俺の家を出ていく所まで腹を括った。
 翌日、もうどうなってもセンター試験を受けることが不可能な時間に自宅に帰ると怒り心頭の両親が待っていて、何の弁論も許さずにまずは一発、頬を殴られる。
 ふざけているのか、と問われたから真剣に人生を考えている、と答える。
 真剣なものが試験も受けずにどこで遊んでいるのか、と更に問われた。遊んでいたのではなく、この先の人生をどうするのか、自分なりに考えた、と説明しようとしたが、父親は聞く耳も持たず、出て行け、と冷たく言い放った。最後の温情で荷物はまとめてやった、と二泊三日用のスーツケースを目の前に置かれる。ああ、これは二年待たずに捨てられたコースだ。本当の本当に予想を裏切らない父親で、俺の十八年の努力がいかに虚しかったのか、証明完了してしまった気分だった。
「お世話に、なりました」
 最大限の意地を張って、スーツケースを受け取って、最敬礼で頭を下げて俺は玄関から家を出ていく。
 そうまでしても父親が俺を止める素振りすらなくて、下げた頭の下で少し笑ってしまいそうだった。
 母親はというと「二人とも意地を張らないで」とは言っているが彼女は父親に扶養されている専業主婦だ。息子の為に人生を投げ出すような覚悟は持っていない。
「哲! 浪人させてもらえるようにお願いしてあげるから!」
「いいよ、別に。『させてもらう』ことも『お願い』することも『してもらう』ことも俺には必要じゃない」
「──何を、言って」
「だから、いいんだって。母さんにはその生き方が正しいんだから、俺のことなんて忘れてください」
「あなた、誰かに何か吹き込まれたんでしょう? そんな聞き分けのない子じゃなかった筈よ」
「寧ろ、十八にもなって反抗期らしい反抗期もなかったことをおかしいって気付いてくれたらよかったのに」
 じゃあね。学費、もう払わなくていいよ。俺の方で適当に何とかするから。
 言うとまだ後ろで母親は何かを言っていたが、結局、俺はそれを無視することで振り切った。
 十八年のときを過ごした実家を出るのがこんなに簡単で、味気ないものだと知っていたら、過去の自分に教えてやりたいと思った。お前は思っているより、ずっと自由だから、自分を傷付ける必要など一ミリもなかったのだ、と。

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