僕らの泡沫 2nd.雨森哲の計画的犯行
正直なところ、メディアに顔を晒すのは否定的な感情が勝る。劣等感を覚えなくていい程度には業界内の知人からファッションの知識と助力を得た。ある程度身なりはきちんと整えている。
ただ、どれだけ整えても俺は中の上だと思っていて、芸能界という眩い世界で上の上を競い合っている宝石たちと並ぶのはどうも筋違いの気がする。
それに、顔出しをするということは街中を不用意に歩けなくなるということだ。
芸能界の中では雨森哲が二条芸能プロの上客だということは周知の事実だが、世間は音楽家の容姿など普通は気にしない。二条芸能プロに出入りするのにそこそこ見栄えのする容姿まで修行してしまった今の俺なら「音楽家にしては」イケメンに見えることは客観的に明らかだ。
「講英社、集談社、朝売テレビ、毎朝放送、中読新聞……何なんすかね、今のメディア、話題なさすぎでしょ」
「それだけきみの作戦は成功してる、ってことでしょ? 喜んでもいいんじゃないかなぁ」
「二条社長にも同じこと言われたんすけど、俺としてはもっと密かなブームとかそういうやつになりたかったんだけど」
信治の喫茶店に顔を出す前に次の新曲を納入する為、二条芸能プロの事務所に立ち寄ったのだがその際にも「首尾よく進んでいて結構」と言われたのが称賛なのか遠回しな嫌味なのかが正直はかりかねている。
俺には二つ才能がある。
まずは分かり切っているが音楽を作る才能。
そして、目標地点まで研鑽を積める努力の才能。
この二つが備わっている時点で俺が失敗する確率なんて何億光年レベルの天文学的数値だ。
「難しいんじゃないかなぁ。だって、きみが主題歌書いた月9のドラマ、爆発的ヒットだったし」
「日曜ゴールデンタイムのドラマの音響も俺だって即バレたし」
「正直、きみの作風、凄く個性的だから売れだすとバレない方が難しいんじゃないかな」
その通りだ。音楽の基礎を学ばずにいきなり音楽を作り出すという天才型天才の才能を、努力型天才の才能でセルフプロデュースしてしまった。売れ始めると爆発的に売れるだろう、とは思っていたがここまで波及効果があったのは流石に計算外で、容姿を整えた目的も顔出しをする為ではなかったから困惑の極みだ。
「いや、売れるのはいいんだけど、ここのとこ急にSNSのフォロワーとかも増えまくってて……」
「生駒くんがアカウント管理してくれてるんだっけ」
「そう。生駒の会社、そういうの専門だから」
生駒——生駒忠宣という青年が代表を務めているサイバーセキュリティ専門の顧問事務所はIkomaSecurityServiceの頭文字を取って通称ISSという略称で知られている。企業のセキュリティ対策から、情報リテラシ教育までを請け負う会社で、昨今依頼が尽きないらしい。生駒が一人で立ち上げたベンチャー企業だということもあり、起業家同士、俺と生駒は友人として交流があるが、お互いの才能を評価したから、今では年齢や年収、企業規模という既成概念を無視して対等の関係だった。
「にしてもISSの代表自ら管理するアカウントって凄いねぇ」
「いいんすよ。俺だってISSのCM曲、書いたんだからお互い様ってやつだ」
「そういう気持ちで取材、出るのは駄目なのかな?」
不意に信治はコーヒーカップを磨くのを止めてカウンターの上に置く。こつり、という小さな音が俺の中にきっかけを生んだ。
「そういう——ってどういう?」
「主題歌採用したメディアのインタビューは受ける、とか、音響を提供したドラマの原作の出版社の対談に出る、とか、そういうことは考えてなかった?」
「あー、お互い様ってそういう取り方も出来るのか」
「メディアミックス作品の音楽の背景を知りたい人、っていうのは一定数いると僕は思ってる」
きみは演者じゃないから、素直にきみの頭の中を話すっていう形式にはなると思うけど、その形を通すなら君の顔出しはきっと意味があるんじゃないかな。
加えて俺の音楽は論理で構成されていないから模倣の対象になっても、決して俺と同質のものを作ることは不可能で盗作を心配する必要もない、と信治は真摯な声で俺に説いた。
「ハルさん、俺はハルさんとは違う心配をしてる」
今、世間は雨森哲の音楽を初めて体験して祭のような状態になっている。
どんな情報でも世間は湧きたつし、どんな情報でも高値で売れる。
その勢いに乗って情報を公開し続けると実入りは確かに多いだろう。
ただ、情報過多の状態になると人は心理的に飽和する。急激な飽和は急激な退化を意味し、一過性のブームというのはこうして作られ、悪いい方をすると「使い捨て」られる。
使い捨ての音楽家になるわけにはいかない。
俺はまだ幸篤の気持ちを掴んではいないだろうし、当の幸篤はまだデビューがやっと決まるかどうかだ。
「物珍しさの洪水に吞まれたら、終わりだ」
どの時代のどの音楽家も個性や真新しさを売りに数多の楽曲を紡いできた。
その中で現代に伝わっているものがどれだけあるか。
古典としてでもその道のマニアぐらいしか認知していない楽曲が星の数ほどある。
俺はいつか、日本の音楽史に二条幸篤の名を載せるぐらいのつもりで作曲家を始めた。
今、ここで使い捨ての音楽家になればその道は永劫潰えるだろう。
だから、敢えて顔を出さないし、取材を受けることもしない。
対談など以ての外だ。
謎が多いほど話題は保たれる。謎と言うのは本来人を集める性質を持っている、全くの合法的な麻薬だ。スタートダッシュに成功してしまった俺が今出来ることがあれば、それは謎を利用して自らの音楽の延命治療うこと、そして次の革命を起こすための助走をすることぐらいだ。
「俺は俺を安売りしない」
「その結果、販売機会の損失があったとしても?」
「ハルさん、顔出ししないと売れないような音楽じゃ俺の夢は叶わないんだ」
「きみはずっとそうだね」
一度決めたことは譲らない。頑固すぎて最後の最後で世渡りが下手くそだ。
まるで泣き出しそうな顔で信治がこちらを見ている。知っている。知っているんだ「父さん」。俺だって自分のことぐらい流石に理解している。不器用すぎて自分でも泣きたいぐらいだ。それでも。幸篤が俺の曲を歌ってくれるまで。俺は音楽家を辞めるわけにはいかない。
「せめてSNSのDMで、とか条件を付けて対談ぐらい受けなさい」
高潔すぎるものもまた世間からは排斥される、と言外にある。
僕はきみの音楽にはきみが思っている以上の力があると信じているんだ。そんなことをぽつり呟いて信治は再びカップ磨きに戻ってしまう。
諦観でも拒絶でも拒否でもない。
信治は俺が自分で線を引いた場所を尊重してくれただけなのに、なぜだか俺の心は少し切なさを覚えた。その理由をもう少し早く理解していたら何かが変わっただろうか。多分——俺は理由を知っても同じ行動をするだろう。そんなことを思うのはまだもう少し未来の出来ごとだ。
このときの信治の助言を受けて、俺は結局各社のオンラインインタビューを毎月1件ずつ受けた。
その影響で雑誌が重版したり、転売祭が起きたり——はしなかったが、孤高の作曲家、というイメージだけは払拭出来たのでよしとして、この年の秋にとうとう幸篤がアイドルデビューするという話を二条社長から聞いた。聞いた、というか「だからさっさと新曲を持ってこい」と言われた。
その要求を受けた俺はと言えば感極まって言葉という言葉を失い、しばらくの間自失する。
たっぷり十五秒間呆けて、そうしてやっと俺の夢がスタートラインに立ったことを知った。
「——ありがとうございます」
「今までの君の功績からすれば順当——もっと不遜な顔をするかと思えば」
そんな殊勝な顔も出来たのだな、と二条社長がニヒルに笑った。
「自分の夢が始まる瞬間なんてそんなもんですよ」
「あれは君の曲だと伝えたら必死で喜びを堪えていたよ。全く、誰に似たのだか」
「社長、俺は——」
「あと四年だ。その間に君がヒットメーカーの座を手放したらこの話はなかったことにする」
「上等ですね。絶対に、俺は譲らないから、あんたも覚悟しておいてくれ」
未来の義父さん。そう言うと二条社長は黙って手のひらを突き放すように前後して振る。
本当に、一目惚れだったのだ。
純真さを湛えた大きな瞳。父親に似て利発そうな顔つき。
子ども特有の童心に満ちた挙動や小学校高学年によくある小生意気さ。
きらきらと輝く父親の事務所の芸能人を何人も知っているだろうに、俺の曲を聞いたときに見せた高揚感。
好きなものを好きだと言える強さも、正直な輝きも。
芸能人の先輩たちが帰宅してから必死にレッスン室でダンスを真似て踊る姿を見たときには胸が絞られた。俺が二条芸能プロに商売に来る度に幸篤は俺の音源を聞きたがったからコンプライアンスに違反しないボツの曲を好きなだけ聞かせてやった。そのときにはおくびにも出さなかったくせに、一丁前にアイドルになろうとしている。
好きと言う気持ちが日ごとに増していって、俺の感情がいつ爆発するか、本当は自信なんてなかった。
ただ、幸篤の顔を見るとき。幸篤が笑うとき。俺のものになってほしいと何度でも思った。その気持ちに偽りはない。いつだって幸篤を笑顔にするのは俺であってほしいとすら願った。
だから。
「ハッピーバースデー。俺の愛の沼に落ちた気分はどう?」
その台詞を口にしたときの俺の緊張感は司法試験の合格発表のときの比ではなかった。
司法浪人する気がなかったから、あのときも人生で一度きりの難題だったが、所詮答えが用意されているのが学術試験だ。対策を講じれば幾らでも点数は取れる。
だから。
余裕のある大人の顔で、不安など感じさせないように。
彼を世界中から守る盾になると同時に君の心を貫く矛になれるように。
返答を一秒でも早く聞きたくて頭の中がパンクしそうだ。
なのに、幸篤は保留を告げる。
誰だ、こんなに素直に育てたやつは! わかっている。俺と二条社長夫妻だ。わかっている。わかっているが、やはり更に待つのはつらい。つらいが、拒否される未来がまだ来ないということだけが確定したし、幸篤の反応を見るに俺が本気かどうかで迷っているのが手に取るようにわかる。
しょうがないじゃないか。保留。保留か。今無理やりに押し通して幸篤を傷つけるぐらいなら、もう少し待ってもいいか、と本気で思う。
そのことを仕事終わりに立ち寄った養父の店で報告すると、哲くん、それは保護者の心境の域だねぇと信治に笑われたが、俺は至って真剣そのものだ。
「大丈夫だよ、哲くん。アツくん、きっと今頃据え膳の準備してくれてるよ。少なくとも、僕はそうであってほしいねぇ」
「アツが俺の部屋にいる方にコロンビアブレンド、一袋賭ける」
「じゃあ僕はアツくんが愛の告白に応えてくれる、にコスタリカブレンド一年分賭けようかな」
「よし、じゃあ物々交換成立ってことで」
「いってらっしゃい、哲くん。Have a good night.」
その雑談を雑談で終わらせるのか、或いは真実に変えるのか。
自分の部屋の玄関を開けるのがこんなに緊張する行為だったなんて知らない俺は、間もなく十一年越しの初恋を叶えようとしていた。