おたかん! 01:波乱の幕開け

 華の大学生活が始まる筈だったのに、どうして自分はこんなところにいるのだろう、と志筑信淵は泣きたいような気持ちに駆られていた。
 今、信淵がいるのは奈良県某所──というか、明らかに山林としか表せない藪の中である植物を探している。収穫、伐採された後の写真だけ見せられてもどうやってこの広い藪の中から見つけ出せるのだ、とは抗議したもののそれが聞き入れられる可能性が殆どゼロであることは信淵がいくら世間知らずでもわかる。東京へ逃げ帰ろうにもここがどこで、どちらが山の麓かもわからないし、大体、山を歩いて下るとなると途方もない時間がかかるのは想像出来た。信淵の望む平和な暮らしへの帰路として植物探索が無事成功するのが最も合理的な解であるとわかっていたから、手元の電子端末にコピーしてもらった写真で必死に植物を探す。
 そもそも、何がどう間違ったらこんな状況になるのだ、と思いながら信淵は数日前のことを茫洋と思い出しながらもう一つ、溜息をこぼした。
 あれは高校生という肩書きが書面上失効する日のことだ。三月三十一日の午後。一人暮らしをしたい、と言って両親に契約してもらった学生マンションの一室へ先週引っ越してきて、この日も朝から新生活の準備をしていたら、両親が沈痛な面持ちで来訪した。二人ともまだ就業時間中で、昼休みにしては遅いだろう。何か緊急の要件だ、というのは信淵にもわかる。両親を部屋に通すと父親が生死の境を彷徨うような顔で言う。すまない、信淵、お前は明日から青桐学院大学に通うことになった、と。
 青桐学院大学、というのは全国的に名が通った有名私立大学で、付属幼稚園から高校までもを含めると一大学閥の一つと言っていいだろう。当然、信淵も青桐学院については認知している。ただ、名門であるが故に学費や入学金が高く、志筑家の家計ではとてもではないが賄うことは出来ないのもまた事実の一つだ。信淵の偏差値と志筑家の経済力。二つの課題が調和して、信淵の中では別世界と認識されていた青桐学院に通う、というのは何の冗談だろう。悪意ない嘘を吐いていい日にしてはフライングだな、と妙に冷静な気持ちが湧いたがそれすら考慮せずに両親は明日の入学式にどうやって参加するのかを淡々と告げるだけ告げると帰ってしまった。
 住み慣れない新居にぽつねんと置かれた青桐学院大学の入学の手引きだけが現実を示す。
 あれ? じゃあ信淵が通う筈だった大学はどうなるのだ?
 と思ったが信淵のスマートフォンに詐欺みたいな短い通知が届いて、そこには信淵が入学手続きを済ませた大学から入学辞退を受け付けた旨が記されている。馬鹿なこともあるものだ。大学の入学手続きがこんな簡素で即時的に置き換えられるなんて、どこの三文小説の世界観だ。二十一世紀の日本の情報リテラシでそんな馬鹿げたことが成り立つなんて、絶対にあり得ない。これはきっと何かの悪い冗談なのだ。
 でなければきっと悪い夢でも見ているのだろう。ああ、早く起きないと明日の入学式までにスーツを吊るせないじゃないか。そんなことを思いながら信淵は自身の頬を思い切りつねった。痛い。痛いし、馬鹿馬鹿しい。明るい未来の到来の気配もない。そこに追い討ちをかけるかのように次の来客があった。インターホンが軽い電子音を鳴らす。ほら、やっぱりこれは両親からの性質の悪い悪戯だったのだ。それを撤回しに戻ってきたのだろう。だなんて甘い考えて応答ボタンを押す。画面が切り替わってエントランスの画像を映し出した。その向こうにいるのは、見たこともないような美女で「信淵クン、お待たせしているね」と寧ろ待っているのはそちらの方だろうとツッコミたくなるコメントを申し述べてくる。
「あの、どちら様でしょうか」
 状況は未だ把握出来ていないが、向こうはこの部屋の住人が信淵であることを確信している。居留守を使うのも無理があるだろう、と腹を括って通話ボタンを押すと美女は「何、難しいことじゃないさ。明日からこのボクがキミの担当教官になるのでね。顔でも見ておこうかと思って」まぁ、写真と動画でボクは飽きるほどキミを見たのだけど。などと続いてこれは未だかつて一度も使ったことがないスマートフォンの緊急ボタンをタップする出来ごとじゃないのかと本気で思ったぐらいだ。
「信淵クン、開けてもらえないのならボクが開けてもいいんだぜ?」
「えっ?」
「ということだ。ではお邪魔するよ」
 言って美女は見たこともないカードキーを取り出したかと思うとエントランスを通過する。インターホンの映像はそこで一旦消えたが、信淵の不安は加速度的に増す。やっぱりこれは何か犯罪の一端に巻き込まれているのではないか。通報するのなら早いうちがいい。でも、あの美女は「明日からの信淵の担当教官」だと自称しなかったか。それが真実ならことを荒立てても益はない。いや、既に危険なのだから、などと逡巡している間に今度は部屋の呼び鈴が鳴らされる。玄関の扉をノックする音がしたかと思うとドアノブが音もなく回る。施錠されていないドアを開けるかのごとき容易さで玄関が開いて美女と直接対面を強要された。
「信淵クン、電子セキュリティなんてボクたち『五摂家』には何の効力もないってことをよく覚えておくのだね」
「ふ、不法侵入ですよ! 人の部屋に勝手に入り込んできて何が目的ですか! 俺は──」
「だから。言ってるだろ? キミは明日からボクの研究室のメンバーに入るんだ。ご挨拶でもしようかな、ってね」
 志筑信淵クン。キミはキミの両親に売られたのさ。何でもないことのように美女はそう言うが、話の流れが上手く咀嚼出来ない。困惑で顔中を彩っていると「おや? ご両親は何も言わなかったのかい?」と美女の方が訝っているぐらいの有り様で、その段になってようやく、信淵は美女が外敵の類でないことを少しずつ理解し始めていた。
「困ったな。ボクは説明が得意じゃないんだ。九条八家の人間ならきちんと筋を通してもらいたいね」
「あの──」
「警察だの消防だの言うのは少し待ってくれないか。そんなことをしても何の意味もないし、ボクも無駄に情報を握り潰すのは面倒なんだ」
 物騒な単語が散見される台詞を堂々と言い放って、それでもなお美女は後ろめたさの一つも見せない。多分、彼女が言っているのは事実なのだろう。ただ、事情が飲み込めない信淵と説明が不得手だと自己申告した美女とでは埒が明かないのもまた事実だった。
「信淵クン。ちょっと出られるかい? 説明が得意なやつを捕まえるから、少し外で話そう」
「あの、その前にあなたは一体何もの何ですか?」
「おや、そうだった。名乗りもせずに申し訳なかったね」
 ボクは一ノ谷白川(いちのたに・はくせん)、青桐学院大学で古物の研究をしているものだ。
 その名乗りを聞いてもなお信淵には何も響いてこなかったが、偽称をするにはリスクが高すぎる自己紹介だ。両親が突然に持ってきた青桐学院大学の入学の手引きはまだ開いてもいない。だから。信淵が真実、自身の受かった大学ではなく青桐に進むしかないのだとしたら、目の前の美女──一ノ谷に話を聞くのは決して荒唐無稽なことではないと確信する。
「あなたを信じるかどうかは別として、取り敢えず、話、聞かせてください」
 一ノ谷の提案を受け入れる、と示すと美女は顔を明るくする。もともと明るい顔つきが更に明るくなってまるでアンダルシアの薔薇でも咲いたかのような美しさに見惚れていると、一ノ谷は彼女のスマートフォンでどこかしらに連絡をつける。通話を終えると一ノ谷はこのマンションの次の区画にあるコーヒーショップで適役と待ち合わせることになった、と言う。
「信淵クン。まぁ、明日に障らない程度にするから、何、そんな取って食われそうな顔をするものじゃないぜ?」
「──今どきそう言われて、信じるのは小学生でもレアですよ、多分」
「まぁそう言わずに。段ボールの山の中で話すより、断然いいだろ?」
 言って不敵に笑まれるとこちらが悪人にでもなったかのような錯覚を与える。
 コーヒーショップで何の話が待っているのかは定かではなかったが、訳もわからないまま進路が勝手に変わって、不本意なまま入学式を迎えるよりは今、一ノ谷から説明を受けた方が幾らかマシだろうと自分に言い聞かせて、信淵は一ノ谷と共にマンションを後にした。

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