おたかん! 01:波乱の幕開け

 青桐学院大学の入学式は主に学院からの寄付で建設されたという劇場を貸し切って行われた。首席入学者──大学と大学院との両方の学生でどちらも学識を感じさせた──の挨拶と、学院長からのありがたいお話があるだけで、特別なものは一切ない。もっと長々と拘束されるかと思っていただけに午前中の一時間半で解散の号令が出たときには信淵は拍子抜けしたものだ。
 信淵の名前が登録してあったのは法学部の名簿でそこはこちらの意を汲んでくれるのだな、と小さな感動を覚える。明日の午前中に新入生を対象としたガイダンスがあるとの旨を聞き、早々に帰宅しようと思っていたらスプリングコートのポケットにしまっていたスマートフォンが鳴動する。登録した覚えもないのに「一ノ谷白川」とディスプレイに表示されていて、昨日の出来ごとを悪夢と片付けてくれるつもりがないのを察してしまった。
 振動し続ける電子端末を無視するのは困難で、結局は諦観と共に緑のアイコンをタップした。
 一ノ谷もまた入学式に参加していた、と認識しているのにスピーカーの向こうに何やら盛大なノイズが混じっている。一体どこにいるのだ、と思いながらも信淵が「一ノ谷さん?」と声をかけるとそれはもう快活そのものの声で彼女は一方的な宣言をする。
「信淵クン! 入学早々申し訳ないが、フィールドワークに同行してもらうよ」
「えっ? ふぃー? 何ですか?」
 後ろが五月蠅くてとてもじゃないが何を言っているのかが聞き取れない。文句を言ったつもりが、自分の声さえかき消すほどのエンジンの回転音が頭上から降ってきたかと思うとあまりの風圧に立っているのも困難になる。気が付けば小型のヘリコプターが頭上高くでホバリングしていて、そこから縄梯子が降りてきた。いや、これはどう考えても三文小説の展開だ。今どき、交差点のど真ん中にヘリコプターだなんて一般常識を持ち合わせていれば絶対に登場させない。せめてドローンぐらいにしてくれ、と現実逃避を続けていると縄梯子を器用に降りてきた相馬にハーネスを装着させられて信淵もまた上空へと誘われる。
「相馬さん! 誘拐ならもっと地味にしてくれませんか!」
 信淵は高所恐怖症ではないが、限度というものがある。東京の街並みを上空から見下ろしたいなら別段、東京タワーかスカイツリーでこと足りるだろう。誰がこんな危険な非日常を望んだのだ、と文句の一端を放り投げる元気が出た頃には信淵は座席に固定されて、相馬とは横並びだ。
「君は……何というか、こうしてみると実に異能者らしい強靭な精神力だな」
「いいじゃないか、相馬クン。帰りたいだの、何だの泣き喚かれるよりは断然マシじゃないか」
 一ノ谷が愉快気にこちらを見て言い放つ。帰りたい、と微塵も思わなかったわけではない。信淵だって何も好き好んでこの理解不能の事態に飛び込んだのではなかった。ただ、ほんの少し。ほんの少しだけ自分が今、何を体験しているのかの答えを知りたいと思っただけだ。世の中ではそれを興味本位という。野次馬と言い換えてもいい。相馬が見せる異能がそれだけ輝いていたのだ、ということを信淵はまだ自覚していないが、逃れられない運命なのだとしたら逃げるより立ち向かって寧ろ能動的に対峙したいじゃないか。そんな風にすら信淵は思った。
「志筑、俺たちは別段危険なことはしていないが安全が保証されているわけでもない。興味本位で首を突っ込むのはお勧めしないが、帰すつもりもないからまぁ、俺も忠告の出来る立場じゃないな」
 居心地の悪そうに相馬が言うのを聞いて、一ノ谷が相馬を生真面目と評したのは的確な表現だったと知る。
「ちなみに、このヘリはどこに向かってるんですか?」
「奈良県さ。吉野の何て言ったかな。まぁ、兎に角山林に用があるんだ」
「いや、一ノ谷さん、俺、スーツなんですけど?」
 一ノ谷の想定外の答えに思わず、信淵は問い返していた。先ほどまでの興味本位の好奇心がすっと波を引くように遠ざかる。今日の為に用意した一張羅で山林に飛び込む勇気は流石の信淵にもなかった。革靴で山林を歩き回るのは困る、と若干ズレた視点から一ノ谷に陳情すると彼女は華の笑顔で言い放つ。
「大丈夫、ダイジョーブ! 信淵クンの着替えもちゃんと用意してあるさ!」
「陸上自衛隊の備品並みの装備だ。汚れたらクリーニングで預かるし、何なら今君が着ているスーツもこちらで面倒を見よう」
 だから、安心してフィールドワークに参加しろ、と言外にあるのを感じ取った信淵の胸中は複雑な思いでいっぱいだ。
「……いや、そこはそっちにフォローするんですね」
「宗主と帆足が先に現地入りしているからな。まぁ、俺たちの本業など宗主の任務の前では児戯に過ぎないんだ」
「ってことで、信淵クン。速度が上がるよ~? 舌を噛まないように注意してくれたまえ!」
 操縦席に向けて一ノ谷が器用に片目を瞑って見せる。パイロットはそれにサムズアップで応えるとぐん、と座席に向けて引っ張られるような感覚が生まれた。生まれて初めて乗ったヘリコプターという乗りものは安定感という概念を放棄していて、信淵にそれ以上反論をする余力を与えなかった。

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