おたかん! 01:波乱の幕開け

 信淵たちを乗せたワンボックスは山の中腹で停車した。その前方に別のワンボックスが停車しているのが見える。今の今まで信淵たちが登ってきた道——と思っていたものが燐光を帯びてただの山林に転変するのを見ながら、信淵はようやく山中に舗装された道など最初から存在しなかったことを知った。帆足——「臨場師」が先行していたと聞いている。ならばこれが環境定義か、とその異能の強大さに信淵は身がすくむ思いがした。
 そして。
「帆足クンも信淵クンのおかげで絶好調って感じだねぇ」
「えっ、これ、俺も関係あるんですか?」
「言ったじゃないか。キミはいるだけでいいんだ。いやー、それにしてもこの効果範囲の広さ。うんうん、信淵クンならきっと志筑のものとして宗主も認めてくれるだろうね」
 半径数キロってレベルじゃないからねぇ。いやーこれで志筑は安泰だよ。
 言いながら一ノ谷は下車すると依然、固定化された道を歩き出す。相馬もまたそれに続き、信淵は慌ててワンボックスから飛び出した。こんな何もないような場所で置いて行かれたのでは堪らない。待ってください。
 言って山中に身を投じるとふわり、と風が吹くのを感じた。四月とはいえ、山中ならばもっと冷たい方が自然だ。その違和感を与える風に包まれたかと思うと景色がぼう、と光を帯びる。さわさわと木々の葉が揺れる度に植物の姿が変わっていく。元々自然色豊かだった景色がより彩度を増していくのが信淵にも伝わってきた。これは何だ、と思いながらもその輝く景色の中を一ノ谷たちの後に続いて歩く。
「一ノ谷さん、俺は今、何を見てるんですか?」
「いい質問だね。キミの思っている通りさ。宗主が『交渉』を始めたんだろ」
「帆足が同行している。これが、まず最初の手順だ。環境の定義から始まっているんだ」
 帆足も八家の家長だ、中途半端な異能者ではない。と相馬が補足する。宗主——クジョウ氏の交渉はまず環境を定義することから始まる、ということだったが、「環境の定義」の次元が信淵の理解の域を超えていた。現実世界の中に道を作ったり、ヘリポートになる場所を作ったり、というのも大概驚いたが今、信淵が体験していることはその比ではなかった。帆足の立ったこの山全域に彼は古物の記憶を定義しようとしている。タイムマシンというものが実在するのなら、今、この瞬間の景色をそう呼ぶのが適切だろう。目まぐるしい速度で時間が反転しながら、信淵の目の前で世界の在り様が変わっていく。何昼夜どころの次元ではない。もっとずっと長く。果てしのない時間が巻き戻って信淵はあまりのことに閉口するしかなかった。夜が昼になり朝が夜になる。時折動物の姿が散見されて、場合によっては現代日本では考えられないような衣服を着た人々の姿すら映る。その一つひとつは透かし絵のようで信淵はどれ一つ、触れることすら出来ない。これが古物の記憶なのだろう。宗主の「交渉」というのが何なのかは未だ判然としないが、その中に自らが異物として共存していることを心底不思議に思った。
 どのぐらいその異邦の光景を見ていただろう。歩いた距離はそれほど長くない。だのに宗主と帆足の待っている場所に辿り着いたとき、信淵は表現し尽くせないような疲労感を覚えていた。
「宗主。いい感じじゃないか」
 一ノ谷がそう言いながら声をかけた相手を見て、信淵は思わず「あっ」と声をかけそうになる。別段、タカノリ・クジョウの容貌を知っていたとかいう高尚な理由ではない。ほんの数時間前、青桐学院大学の入学式で院生の代表として登壇していた顔がそこにいたから、というシンプルな理由だ。同時に信淵の頭はオーバーヒートする勢いでぐるぐると悩む。院生の代表があの世界のタカノリ・クジョウだったというのか。いや、彼は確か高遠遊馬(たかとお・あすま)と紹介されていなかったか。では別人か。そんな信淵を放置して一ノ谷とクジョウ氏の会話は続く。
「そうだな。やはり適応者がいると反応速度が違う。いい拾いものをしてくれたな、白川」
「それで? 『素材』はもう『固定』されたのかい?」
「今、生駒にさせているが、『表現者』の力添えが必要なようだ」
「白川、お前は生駒を補助しろ。これだけ適応力が高いのなら俺は一人でも務まる」
「りょーうかい」
 じゃあそこで信淵クンは帆足クンと話してておくれよ。
 言って「交渉人」と「表現者」と「補助者」の三人は更に前方の藪の中で生駒と呼ばれたものの助力に向かってしまった。
 残された信淵は強制的に帆足と経過観察することになる。
 昨日着ていたコックコートではなく、信淵のものと揃いの作業着を着ている帆足はどこか別人のような雰囲気すらあった。話しておけ、と言われてスラスラ言葉が出てくるほどには信淵はまだ成熟していない。何を話せばいいのだろうか。困惑の海の中で信淵よりも長身の帆足を見上げると彼は愛想よく笑ってくれた。
「志筑君は随分と肝が据わっていますね」
「いや、あの、俺としてはもうこのうえなく混乱してるんですけど……」
「あれ? そうですか? 私には随分落ち着いているようにしか見えませんが」
「多分、驚きすぎてもう無反応になってるだけで、帰ったら頭パニックになる未来しか見えてないですよ」
 両親が借りてくれた学生マンションの部屋に戻って在るべき日常に戻りたい、と端的な願望を告げると帆足は垂れ眉毛の柔和な表情でそれを一刀両断する。
「志筑君。残念なお知らせしかないのですが、それは多分無理な未来です」
「?」
「宗主に八家として認められてしまえば、その時点で君はもう八家なのです」
 頭がパニックしているだとかいう猶予すら与えられないだろう、と帆足は言うが現在進行形で頭がパニックしている信淵には帆足の言わんとしていることがどうにも伝わってこない。